特攻の開始時期

上の雑誌からメモ。
以前から特攻は大西の思いつきから始まったのではなく、かなり以前から本省で計画されていたという指摘はあった。
たまたまの戦果からやむを得ず採用したのではなく、海軍中央のエリートには戦果のためには下級兵士の死を厭わない非人間的発想が最初からあったということだ。
 

中澤

鳥巣

鳥巣さんがはっきり証言しているのは、海軍では特攻兵器をずいぶん早い時期から考えていて、神風特攻隊より前に特攻作戦実施が決まっていたということです。一般には、昭和十九年十月二十五日、レイテ沖海戦で関行雄大尉の敷島隊が神風特攻を行ったのが最初と言われていますが、その年の三月にはすでに「回天」を試作している。もし完成していたら当然、使ったはずです。八月には桜花隊の人間爆弾搭乗員を募集しています。
 ということは海軍は十九年春からやる気満々で特攻の準備を進めていた。たまたま回天が間に合わなかったので零戦に爆弾を積んで突っ込ませたということです。にもかかわらず、特攻を決定した軍令部作戦部長・中澤佑が「海軍中央で特攻を指揮したことはない」と戦後もずっと言っている。それは嘘だ、と鳥巣さんは怒っています。陸軍は特攻をやる気がなかったかもしれませんが、海軍への対抗上、はじめざるを得なかったようです。
 一般には、大西瀧治郎中将がレイテ沖海戦にやむを得ず特攻部隊を編成したということになっていますが、源田実大佐から大西中将に宛てた電報をみると、一週間も前から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」と、特攻部隊の名前まで決めていたことがわかります。海軍を悪者にしたくないから、そういうことを戦後、海軍の元軍人は隠していた。(略)

中澤の回顧録『海軍中将 中澤祐』において、軍令部総長及川古志郎、軍令部次長伊藤整一、軍令部作戦部長の中澤に大西瀧治郎が「体当り戦法」を進言したかのように述べている。しかし後年、その当時の中澤はフィリピンに出張中で、その席にいなかったのではないかと問われ中澤は絶句している[2]。(wiki


やるせないのは、この鳥巣という役人も正義感から告発しているとばかり言えないことだ。つまり回天の責任者ではあったが、特攻自体は海軍の方針だったではないか、と責任逃れで突き上げているのである。

回天顕彰会長高松工氏が目撃した戦後の回天搭乗員慰霊祭で鳥巣元中佐が生き残った隊員から責められる場面の証言。
高松(生き残った隊員が座っていたようにだろう、縦長の机の手前端下座に座って)
「ここから高橋が立ち上がって (机反対端の上座に指差して) 怒鳴り始めたんですよ。」
鳥巣さんよ、あんたがその上(かみ)の場にあんたが座るもんじゃないよ、ってね。あんたは兎に角あれだけのことをやりやがって、一番下(しも)に座るのがお前の役だ、って」
http://www.tante2.com/back-kamikaze-d.htm