ハルヒはなんでうけたのか?

      

             
ニコ動のダンスから入ったハルヒ。なぜこれが受けるのか?と知人と話したことを思い出す。
漏れの結論は、これってただの「楽しい青春」シミュレーションじゃんということ。SFとかカンケーネーよな。
だからやっぱり寂しい青春の人って多いんだろうなあと。
『NHKへようこそ』でみつけたサイトであまりにも的確に論じられていたのでメモ。
「善良な市民」畏るべし。主に氏の発言を抜き書きます。
   
追記)
「善良な市民」は素直に「青春したい!」と言えない理由をヲタクのプライドのせいにしているけど、ちょっと冷たいのじゃないかな。
だって自分で「スペック上の問題で」と的確な指摘しているじゃん。
ヲタクは不細工だからもてず青春出来ない。それが真実。
そして、いじめられっ子がそれを認めないのと同じで、プライドは哀しい自己防衛なのだ。
だから最初から普通の青春に回帰できるような人はヲタクにはまらない。
そうできないからはまる。
ヲタクの自我防衛のための装置がついていることなど、ある意味あたりまえすぎてわざわざ批判するようなことかな、と思う。
       

【素直に「青春したい!」と言えない人たち】
    
●善良な市民
 僕はこれ、原作は最初の1巻が出たときに読んでいるんですよ。
 角川スニーカー文庫(注1)って、角川本社の所属の老舗レーベルのくせに、角川系ではもっとも悲惨な負け組みレーベルだったわけですよね。
 それがこの作品に何年かぶりの「スニーカー大賞」をあげてどーんと売り出してきた。対象年齢も明らかに高いし、これは「本気で売り出してきたな」って思いましたね。『ブギーポップ(注2)』以降のライトノベル読者の高年齢化の流れが、はじめてスニーカー文庫で前面化した作品だと言えると思います。あまりに遅きに失している感はありますけどね(笑)。

 で、これって要するに「不思議ちゃんの彼女が欲しい」って話ですよね。
 この作品の本質はメタ構造でもなければSF設定(世界改変能力云々)でもない、(恋愛を含む)「こんな青春がしたい」妄想の屈折した表現ですよ。
 この手のオナペット産業に一切思い入れがない人間から断言させていただきますが(笑)、この作品は「自分は恋愛(に代表される日常世界でのロマン)にたどり着けない」と劣等感を抱え込んでいる男の子たちの現実逃避装置としてかなりよくできている。SF設定もメタフィクションの導入も、全部「萌えオタの自己正当化と現実逃避」のために機能しているんです。

 この作品は簡単に説明すると、「不思議ちゃん」すぎて友達がいない美少女ハルヒを、主人公の男の子(キョン)が優しく見守るって話なんです。ヒロインのハルヒは「日常は退屈でつまらない、宇宙人や超能力者や未来人がいてくれればいいのに」とずっと思っていて、実際に屋上でUFOを呼んだりしちゃう「不思議ちゃん」です。
 
 でも、よく考えたら明らかに「日常の中に楽しみを見つけられずにダダをこねている」のはハルヒ以上にキョンなんですよね。キョン(=この作品のファン)こそが「困った不思議ちゃん(ハルヒ)を温かく見守る」という非日常から離れられなくなっている。
 これって、典型的なオタク男子のパターンなんですよ。普通の女の子とは付き合えそうにないからいじけて二次元の美少女キャラに走る。でもそれじゃ寂しいから、妥協案として(笑)「不思議ちゃん」や「メンヘル女子」に走る。「自分よりかわいそうな女の子を助ける」というロマンに溢れたストーリーを勝手に脳内につくって暴走しちゃうんですよ。『NHKにようこそ!(注3)』の佐藤君タイプですね。
 この作品って、間違いなくこういうメンタリティをもっているどうしようもないオタク男子たちを気持ちよくさせるためにSF設定やメタフィクションが導入されているんですよ。
 「不思議ちゃん」ハルヒを「常識人」キョンが見守るという構図は、キョン(=ファンのオタク男子)こそが非日常に現実逃避ばかりしている貧しい存在だという事実を隠蔽してくれるし、ハルヒの「世界改変能力」は「非日常を望んでいるのはあくまでハルヒですよ(君はちゃんとわかっていますよ)」というサインを出してオタク男子たちを安心させる効果を生んでいる。巧いですよね、これなら無駄にプライドの高いオタク男子も安心してハマれる。
     
●善良な市民
 結局ハルヒって友達欲しいだけじゃないですか。「不思議ちゃん」って要するにそのキャラを許容してくれる人間関係がないと成立しないものですからね。
 SOS団って結局やっていることは、その辺のありふれた文系サークルと一緒なんですよね。夏休みに合宿したり、草野球したり、自主映画撮ったり。実は等身大の青春で満足しているんですよ。
 この辺、谷川流ってよくわかっていますよね。ハルヒも、この作品が好きなオタク男子たちも、「酸っぱい葡萄」状態にあるんですよ。 本当は「等身大の青春」に憧れているんです。でも、残酷な話だけどおそらくはスペック上の問題で、それが手に入らない。でも、そんな悔しさを素直に認めたくないんですね、プライドが邪魔して。それで「私は(俺は)日常で手に入る程度のロマンでは満足できない、非日常的なロマンじゃないと満足できないんだ」と、自分で自分に言い聞かせている。
 だから、このシリーズって複雑な気分にさせられるんですよね。
 「この作者ってよくわかっているなあ」とも思うし、「ここまで言い訳しないと等身大の青春が欲しいって素直にいえないのか」と思う。
         
●善良な市民
 ただね、僕もさすがにSFやファンタジーにまでは走らなかったけれど(ノストラダムスとか全然気にしてなかったし、基本的に毎日は楽しかった)、やっぱり高校時代に「等身大の青春がしたい」って自分の欲望は素直に認めたくなかったですよね。男子校だったんですけど、明らかに女っ気は欲しかったですよ、そりゃあ(笑)。でも、それを素直に口にするのはちょっと恥ずかしい、みたいな空気はありましたよね。 だからプライドの高いオタク男子たちが、この作品に惹かれるのはよくわかる。
                    
 成馬さんとも放映期間中、よく話題にしてたんですけど、第 12話なんて『リンダリンダリンダ』そのままじゃないですか。でも、実際にこの映画みたいな青春に憧れていればいるほど、素直に「こういうのっていいよね」って言えないと思うんです。そんな人たちがリハビリのために、言い訳をしながら『ハルヒ』を消費していけばいいんじゃないかって思いますね。
 そして、ちゃんと数年後には『ハチクロ』とか『リンダリンダリンダ』に惹かれる自分に素直になれたらいいですよね。
                 
●善良な市民
 ただ、この作品って成馬さんの言う「作者の優しさ」が仇になっているところがあって、せっかく日常への出口がチラついているのに、作者が優しすぎる(裏返せばクレバーに意地悪すぎる)んで、オタク男子たちが「非日常へ憧れ続ける僕らって、夢見人でカッコイイ」とか思っちゃえるようになっているんですよね。それがさっき話した「キョンの非日常への欲望が隠蔽されている問題」に端的に出ている。
              
 でも、実際はこれまで話してきたように、こういう「等身大のロマンじゃ満足できない派」=「本当は等身大の幸せが欲しいけど手に入らなくていじけている派」なわけじゃないですか。ここを甘やかしちゃうのが人気の秘密であり、同時に弱点になっている。この作品が狙い打ちしている無駄にプライドの高い萌えオタか、オタクという社会現象に興味がある一部の視聴者(僕らみたいな層)を除けば、たぶんただの美少女アニメにしか映らないと思う。
                
●善良な市民
 あと、これも成馬さんと放映期間中によく話してたんですが、ハルヒはちゃんと「つまんない大人」になって欲しいですよね(本当は絶対に今より面白いんだけど)。
 ハルヒって、実際はたぶんあんな美人じゃなくて「観ようによっては可愛い」くらいの娘じゃないですか。キョンもたぶんあんな無味無臭な外見はしていない。
 そんなハルヒがちゃんと「つまんない大人コース」を歩んでくれたら、これ、すごくいい話ですよね。大学で「垢抜けたいんだけどイマイチ乗り切れない」タイプのぬるーい文化系サークルに入って、サークルクラッシュしたり。OLになったあと自分探しでいきなり退職して南の島行ったり語学留学したり(笑)。
 でもそれって、宇宙人や未来人や超能力者と出会うことより、ずっと面白いことなんですよね、本当は。
            
●善良な市民
 これ、ちゃんとハルヒが普通のつまらない大人になったらすごくいい話ですよね。巧妙に隠蔽されているキョンの非日常への憧れも昇華できるような終わり方になったら言うことないですよ(笑)。
         
【「メタ萌え論」の限界、そして……】
         
●善良な市民
 この作品って『機動戦艦ナデシコ(注6)』あたりから続く「メタ萌えもの」の系譜にあると思うんですよ。基本的に「萌えアニメ」なんだけど、オタクの動物化に対して批評的な要素がメタフィクションとして提示される作品ですね。『NHKにようこそ!』とか。
 ここ10年、『ハルヒ』に惹かれるような「酸っぱい葡萄」系のファンってこういったメタ萌え作品を拠り所にして、自分の現実逃避を正当化していたところは確実にあったわけです。こうやって「本当は日常世界で自己実現したいのに、それを素直に認めたくない自分」を延命していたわけです。
                  
 でも、『ハルヒ』あたりまで煮詰まると、やっぱり「本当は等身大の日常で充分素敵なんじゃないの?」ってツッコミを内報せざるを得ないし、そこが出口にならざるを得ない。
 これってある意味「メタ萌え」ものの敗北宣言であり、限界を示しているんです。そして、こういうことをよくわかっている点が『ハルヒ』をこの類の作品たちから頭二つくらい出た作品にしている。
             
●キクチ
 で、この「逃走」というテーマをまったく別の形で捉え直したのがエヴァ(注8)です。もちろんラブコメの主人公のような、責任からの軽やかな逃走ではありませんが、「逃げちゃだめだ」という台詞からも明らかなように、シンジ君もまた現実から逃走している。劇場版に至っては、「ミサトさん綾波も怖いんだ」なんて言って昏睡状態のアスカに泣きついてます。情けない限りですが、女性と正面から向き合うことを拒絶しているという点では、あたると同じですね。
そんなシンジ君ですが、最後にはあたるやキョンと同様に、「補完された世界」ではなく元の現実世界を選び取ります。そのときの台詞が「でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」。これはあたるの「それなら大丈夫。お兄ちゃん会いたいひといっぱいいるから」という台詞、またキョンの「俺は連中ともう一度会いたい、まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」という台詞と呼応してます(というか「まんま」ですね)。
ところが、現実に帰ってきた矢先、シンジはアスカに「気持ち悪い」と言われてしまう。これは確かに90年代のオタクのトラウマですが、同時に、男女が真に向き合うということの本質でもあります。あたるは他者(ラム)と向き合う関係から逃走したが、シンジは他者(アスカ)と向き合って傷つけられた。これがBD(80年代)から見たエヴァ(90年代)の達成です。

 そしてハルヒ(00年代)では、そこからさらに二人が歩み寄る関係を示した。現実に戻ってきたハルヒは、キョンの好みのポニテで登校し、キョンはそれに「似合ってるぞ」と声をかける。間違っても「気持ち悪い」とか言わない(笑)
これを見たときには「時代は巡ったなあ」と思いましたね。ハルヒエヴァと比較されることが多いのも、10年ぶりの話題作というよりは、エヴァの「気持ち悪い」を乗り越えた作品と受け取られたからでしょうね。現実に帰還し、かつヒロインとも分かり合えたという。

 もっとも、90年代っ子の僕としては「日和ってんじゃねーよ」というのが正直なところです。キョンの帰った先は結局SOS団とゆるゆる遊ぶラブコメの世界で、単なる退行だろ」という批判を、無粋とは知りつつ、いちおうしておこうかな(笑) 。
               
●善良な市民
 それは正しいと思う。『エヴァ』を乗り越えたんだじゃなくて、楽な方向に退行しているだけだよ。「アスカに拒絶されないエヴァ」を消費して精神安定剤にしているオタクたちがたくさんいるってことなんだろうね。こういうプライドだけが無駄に膨れ上がったオタクたちをどう日常に着地させるか、がこの作品の味噌だよね。まあ着地させずに永遠に萌えサプリメントを与え続けるのかもしれないけど。
           
【「キョンのモノローグ」の問題 】
             
●善良な市民
 僕はこの原作でどうしても好きになれないところがあって、それが語り手のキョンの口調なんですね。
 この無駄に見栄を張っているっぷりが愛おしいと言えなくもないんですが、さすがにこれはウザイ(笑)。読んでて「あー、君が過剰防衛なのはよーくわかったから」って思っちゃう。
 これってこういう「言い訳系」「僻み系」の第二世代オタクの口調そのものですよね。突っ込みキャラのつもりの突っ込まれキャラ(笑)。
 まあ、こういう風に親切に過剰防衛を重ねてくれるから、みんな安心してこの作品にハマれるんでしょうけどね。
                  
●narima01
 俺も自分の中高生の頃に『ハチクロ』とか『リンダリンダリンダ』みたいな作品に素直に行けたか?というと絶対いけなかったと思うんですよ。じゃあ何処に行ってたかというと、まぁ座談会でやった『さくらの唄(注9)』とか古谷実(注10)とか今でいうスクールカースト系の文学ですよね。「青春にアクセスできないっていう青春」を描いてくれた作品にシンパシーを感じて自分の居場所を作ってたんですよ。まあ、「青春にアクセスできないっていう青春」を描いた作品は別の意味で負のナルシズムを満たすアイテムなわけですけど。
                 
●善良な市民
 そう、ここをおさえて置かないと「マイノリティである自分には真実が見えている」みたいな一番どうしようもない勘違いにハマっちゃう。
                      
【第12話『ライブアライブ』をめぐって】
                     
●善良な市民
 この作品って、ハルヒには厳しいけどキョンには甘いんですよね。「ハルヒキョンを求めている」という一番視聴者にとって甘い幻想だけは神聖不可侵にしてしまうでしょう?
 『NHKへようこそ!』もそうだけど、エヴァ以降の「メタ萌えもの」って「アニメ美少女が視聴者の分身たる主人公を無条件に必要としてくれる」って幻想だけは絶対にメタ視できない。ここが一番の核なのにね。
 ハルヒには「日常」という出口を用意しているけどキョンにはしていないんですよ。そのほうが安心して妄想に浸れるんでしょうけど、ちょっとつまんないですよね。
                 
●善良な市民
 あれは演出レベルで完全にパクリでしょう(笑)。意図したわけじゃないんだろうけど、おかげで12話は完全にこのアニメが「素直に青春したいと言えない人のためのリハビリ作」であることを象徴してしまっているんですよね。ある意味、「メタ萌えもの」の敗北宣言でもある。
                  
 このアニメが好きなオタク男子にとって「オタク臭いダメ自主制作映画」は「こちら側」で、「メインステージのライブ」は「あちら側」なんでしょうが(笑)、実はこのふたつって地続きなんですよ。
 僕がこの12話好きなのって、そこが見え隠れしているところなんですよね。さっき成馬さんも指摘していたけれど、「クラスの隅っこにいる俺たちだけど、その分ホンモノがわかるんだ」みたいな劣等感の裏返しのナルシシズムって、僻みオーラでいちばん作品を貧しくしてしまうんですよ。
 ところがこの12話って、ちゃんと「こちら側」と「あちら側」の境界線が曖昧になっているし、「こちら側」から「あちら側」に行くこと(素直に等身大の日常の中にある素敵なものを発見すること)を肯定している。
 相変わらずハルヒには厳しくてキョンには甘いところはあるけれど、事実上の最終回として嫌いじゃないです。
                      
●善良な市民
 僕らがペ・ドゥナのファンであることを割り引いても(笑)、あそこでヌルい声優ソングがかかったのは白けますよね。この作品、よくできているけどそういう狭さは確実にあって、致命的な弱点と言ってもいい。でも、これってここ10年の「メタ萌えもの」がずっと抱えてきた弱点なんですよ。
                 
 そもそも「メタ萌えもの」って二次元美少女に現実逃避している人間には、自分の欲望を照射されてショックはあるのかもしれないけど、別にそういう性癖を持たない大多数の人には痛くもかゆくもないわけですからね。
 結局声優ソングをかけてしまうあの12話は、そんな「狭さ」を象徴している。
                
 だからこれって結局「リハビリ作」なんですよ。
 被害妄想を膨らませて、本当は青春したいのに「したい」って言えない女の子が、「SF・ファンタジー的非日常」→「究極人あ〜る的オタク共同体での馴れ合い」→「文化祭のステージ」と、どんどん素直になっていく話なんです。これで視聴者の分身=キョンの欲望もメタ視できていたら言うことなかったんですが、それをやると「見たいものしか見ない」オタクたちにはスルーされますからね(笑)。結局、最後の最後で視聴者に甘くなっているんですが、この「甘さ」がヒットの秘訣なのは間違いない。
                       
谷川流という作家】
              
●善良な市民
 この人、袋小路に入った萌えオタのプライドをちゃんと守ってあげながら、これだけ痛いところついているんだから相当クレバーですよね。
           
【僕の考えた10年後のハルヒ
           
●善良な市民
 まずですね、ハルヒって実は美人じゃないんですよ。小説やアニメはキョンの主観を通しているので美少女になっているんですが実際のSOS団の平均顔偏差値は45.3です(惑星開発委員会調べ)。
 で、高校卒業後のハルヒは、不思議ちゃんこじらせて地方の芸短大に進学です(笑)。さすがにUFOとか言っている電波キャラはキツイので高3で卒業します(笑)。で、似非アート系になる。滅茶苦茶よくあるパターンですね。
 で、そこで出会った(留年数だけが)ハチクロの森田にソックリな男に処女を奪われてずるずると同棲。二十歳でできちゃった婚します。
 10年後ですが、そのころは旦那もアート系キャラを卒業して、立派な労働者になっているんですね。子供も小学校高学年になって、まあそれなりにシアワセな人生送っていて、ある日、ふと空を見上げて物思いにふけるわけですよ。
「ああ、私って不器用で友達いなかったからSFやオカルト幻想に逃げていたんだなあ」って、10年くらい経ってやっと気づくんです。
 『スローなブギにしてくれ(注12)』映画版のラストみたいな感じですね。
                  
●善良な市民
 あー、そっちの方がリアルだなあ(笑)。スペックが高いと自意識こじらせても不思議ちゃんやアート方面には行きにくいですからね。
 僕の中ではあれ、文芸部の隅っこのほうでいじけているキョンが「こんな学園生活を送りたかった」って妄想して書いている小説なんで(笑)、登場人物のスペックは小説内設定よりだいぶ下なんですよね。
 夢を壊すなって怒られそうだけど、そうじゃないんです。サークルクラッシュ研究の第一人者として言わせてもらいますけど、現実問題こういうサークルじゃあ「手の届きそうな娘」が人気爆発するわけじゃないですか。これはこれで趣味の1ジャンルとして確立されているんですよ。声優アイドルが成立するのって、要はこういうことですからね。
       
【まとめ 〜いつか「素直になる」日】
            
●narima01
多分、ハルヒ見て戸惑った人っていると思うんですよ。普通の萌えアニメと思って見てたはずなのに「何なんだ?この気持ちは?」って。
それは多分「青春したい」もしくは「青春したかった」っていう気持ちなんですよ。そういう気持ちを喚起する力は確実にこの作品にはあって、その一点に置いて素晴らしい作品だと思うんですよ。
だから、後はそういう気持ちに気付いちゃった我々の問題ですよね。でもここで変に頑なにならないでほしいですね。
「大丈夫ですよ、何歳からでも青春はできますよ。それを恐れなければ」と一応言っておきますね。
あ〜俺も青春したい。
             
●善良な市民
 こういう作品って難しいんですよね。まあ、「素直になるためのリハビリ作品」として機能すればいいんじゃないのって思うけど、逆に「これはリハビリ作として僕らには必要なんだから否定できない」とかまた言い訳して(笑)永遠に「終わらない夏休み」に引きこもるってパターンも多いですから。甘やかしたくなる気持ちはわかるけど、それはできないなあ。
 夏休みは終わるから楽しいんだってことは、ちゃんと理解しておいたほうがいいですよね。その方が絶対楽しいし、お得です。
 あとは、そうですね。今からでも遅くないんで、他人のこと僻んでばかりいないで青春しましょう!
 結局、いじけていて損するのは自分ですからね。

(終わり)
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html