NHKへようこそ


      
ラノベというのを初めて読んだのだった。
そんなに悪く無いなあと思った。
滝本竜彦というのは、痛い自意識過剰青年のパロディみたいなひとだけど、現代の「悩める青年」ってスーパーフラットなんだなぁ、というのが率直な感想だ。こんな程度なんかね、と感じる漏れは古い世代なんだろう。埴谷雄高とか高橋和巳のような青年の苦悩みたいなのを期待しちゃうから。(^_^;) そーゆー時代じゃないんだよね。分かっちゃいるんだけど。
小説内容的には、やっぱり最後は「傷ついた美少女を救う漏れ」というマッチョ物語だけは乗り越えていないんだよなあという点に引っかかった。でも多くのラブソング同様、女子的にはそういう妄想は歓迎なんだろうからカラスの勝手なんだけど。でもやっぱ漏れのようなすれっからしには引っかかるんだよな。途中まで面白かっただけに、なんだこんな典型的な結末かよって思っちゃう。本物のヲタクで引き籠もりの人はこんな妄想抱かないと思うよ。そんなのは予め失われていると分かっているから。滝本さんは引き籠もりの典型じゃない。彼の劣等感ネタは、ある意味「正しい成功者」という物語を共有しているから成立するわけで、彼は「遅れてきた青年」であって「今時の若者」ではないのだ。オヤジ世代と前提を共有できるから「見いだされた」わけだろう。ガチ団塊オヤジのエージェント村上氏が、滝本氏を以て現代の太宰とせんと本気で思っているとしたら相当痛い。まぁさすがにネタだと思うけど。
そんなことを思っていたら下記のようなサイトを発見。やっぱ同じことを思う人は多いのだなあ。
     

■ウスくてポップなぷちブンガク!
     
(略)
●善良な市民
 小説版の方は「世界の敵と戦う」みたいなロマンは相対化されるんだけど、「トラウマ少女を救いたい」みたいなご都合主義ロマンは何の衒いもなく救済されちゃう。
(略)  
●善良な市民
うん、それは同感です。でも、この小説が話題になったのって「俺たちの気持ちを代弁してくれた」みたいな文脈で、純文学というか中間小説扱いされたからじゃないですか。でも、そうい側面で見ると、この小説版って後半がやっぱり辛い。辛い理由は旧惑星のレビューで書いた通りです。一度ロマンをあきらめて、からかってすらいるのに救済の方法がすごく安易なんですよ。ここが「うまくいっていない」部分です。だからこそ、漫画版では開き直って、正統ラブコメやっている(笑) 。

 小説版「NHK」は、現実の世の中はつまらない/だから引きこもってしまえ、いや、そりゃあ引きこもっちゃうよね という話ですよね。この認識にみんな共感していたわけですでも、結局終盤で、天からトラウマ美少女が「癒してー」って降ってきて、ロマンを備給しちゃう。これって前提を壊しちゃっているんですよ(笑)。これも旧惑星で書いた通りです。途中から「引きこもり小説」であることを放棄しているんですね。
         
 あえてここを突っ込むと、つまりは「終わりなき日常」の処方箋に自傷的なトラウマ語りで、自作自演的にロマンを備給する、という発想はどうなの?って話になる。
 滝本はそれこそ「ラピュタ」や「ナディア」みたいなロマンには「イイけど、ありえないよね」とメタ視できているんですよ。でも、主人公の語りにせよ、岬ちゃんの設定にせよ、この自傷的につくられるトラウマロマンにはものすごく甘いんです。これって滝本だけじゃなくて、ポスト・エヴァからセカイ系にかけてのオタク系表現の泣き所じゃないかって思うんですね。ついでに言うとこういうの幻冬舎的な想像力って、通常オタクたちは「あんなベタなもの」って「ケッ」って反応をしているものなんですが。
                 
 もちろん、普通にウェルメイド風の青春コメディとして考えるなら他に落としようがないし、ここでオチているからまあ、こういうヒットをしているんですけどね。
 問題は滝本も周囲のオトナも大多数のファンも、この時点ではラブコメと割り切れなかったってことなんですよね。やっぱり「何か」時代の突破口みたいなものを期待しちゃった。

 けれど、滝本は実際ここで行き詰っちゃっているわけでしょう(笑)。
               
■オタク第三世代の世界観
     
(略)
●善良な市民
 90年代のテキストサイト文化を背景にしている人でしょ、この人?
 あれ自体がオタク的には激ヌルかったわけだからね。
 でも、滝本が「第三世代のヌルイオタク」だってのはすごくポイントだと思う。濃いオタクだったらね、岡田さんや大塚英志が言うみたいにネットワークつくって活動しちゃうんですよ。僕の昔の仲間には引きこもりギャルゲーマーがわんさかいるけど、全部ヌルいオタク(笑)。フルバ(注9)とか泣きゲー(注10)とか大好きで、すんごく癒されたがっているけど、単にモテなかったり大学やバイト先で嫌われて友達がいないんで、いじけているだけなんですよね。本当にそれだけ(笑)。
 それで虚構の世界で大袈裟な傷とインスタントな回復を消費して引きこもっているんだから本当にどうしようもない。
         
 旧惑星でも書いたんだけど、彼等が引きこもっているのは、欲望がオタクっぽいからなんですよ。フツーに彼女ができて付き合うとか、そういうんじゃなくてトラウマ少女を救うとか、脳内BGMに社会派テーマが流れているとか、すんげー大袈裟なんですよね。ここを治療して、現代日本で普通に獲得できる普通の快楽が充分に素敵だって教えてあげなきゃ。
        
 元々は彼等だってそう思ってたはずなんですよね。恋愛欲求自体は消えてないわけだし。現にちょっとしたきっかけで普通の欲望で満足するわけじゃないですか。コミケでデブス捕まえてきたりして。
 変にいじけて欲望が歪んでいるだけで。本当はコンビニ弁当で満足できるのに「俺は究極のメニュー(注11)しか食わない、そうじゃないと満足できない」って自分にウソついているわけでしょ(笑)。これ読んで、ヌルイおたくはまず「素直になって」もらうことからはじめないといけないな、ってつくづく思いましたね。
    
(略)
●善良な市民
 これはすごく面白い話でね、それは対象年齢が上がってきたから主人公の男の子が成長して自己実現する、って話がうそ臭くなったり、実際の自分に照らし合わせたりしちゃってハマれなくなっているんだと思うなあ。 だって自分が20代半ばのニートとかだったら辛いじゃない、ストレートな願望充足ものは、後ろめたくて。 あと、繰り返しになるけど、まあ教養小説ポストモダンでは成立しにくいって話でしょ? 評価基準が定まらないから。
 で、そういったガラスの靴が砕かれてしまったことを既に知っている「大きなお友達」にはこのパターンの方がハマりやすいんだと思うよ。女の子が「非日常」(セックスとバイオレンス)をまとめて持ってきてくれる。        
■まとめ
    
(略)
●善良な市民
          
 僕はこの小説に描かれているような「とにかく価値のあることがしたい」って焦り、ロマンティシズムは嫌いじゃない。でも、ここを甘やかすと即オウムになることは 10年前に証明されたわけじゃないですか。結局、この小説もトラウマ少女が天から降ってくるっていうオタク特有の歪んだマッチョイズムを甘ったるく救済しちゃう。自分のロマンを備給するために、傷ついている女の子と出会いたい、セカイには腐っていて欲しい。気持ちはわからなくはないけど、こんな稚拙で身勝手な欲望を肯定しようとすれば煮詰まりますよ、そりゃ(笑)。
「誰かのために」じゃなくて本当は「自分のために」でしかあり得ないって自覚がなさすぎるんですよね、今はひょっとしたら気付いているかもしれないけど。
               
 だから、僕は滝本の小説版から漫画版への変化を、好ましい成長として受け取っているんですよ。やっぱ完成度でもNHK漫画版がいちばんいいと思うし。どうやら自分がどこで行き詰っているのかは気付き始めていると思う。
            
 普通こういう作家ってエネルギー源のルサンチマンが切れると終わっちゃうじゃないですか。
 でも滝本はルサンチマンが薄れてきたら、きちんとその代わり得た精神的余裕と広がった視界を利用して作品に厚みと深みを与えている。これはあまりない例で、結構すごいことなんですよ。
 だからこの人、小技を効かせた文章も得意なんだからどんどん書いていって欲しいですよね。
      
(終わり)
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/nhk.html