神功皇后は朝鮮半島に攻め入り三韓(高句麗・百済・新羅)を支配した。
というのが「神功皇后の三韓征伐」の伝承なのだが、戦後、この伝説は日本の朝鮮支配を正当化するから事実ではない、とされてしまった。
しかし考えてみればおかしな話で、ほんらい朝鮮支配に都合が良かろうが悪かろうが歴史的事実には関係ない。
朝鮮のナショナリズムに遠慮して史実を曲げる卑屈な根性がいやだ。
ブリテン人がブルターニュ地方を占領した史実はイギリスの侵略を正当化するから英仏友好のために無かったことにしよう、なんて馬鹿な話は聞いたことがない。
結論から言うと、「神功皇后」なる人物がいたかどうかは確言できないが、日本が朝鮮半島南部を支配したのは間違いないようだ。
というか、記録や物証が豊富に残されているので、そんな事実はなかったと考えるほうがよっぽど不自然である。
しかもこのエピソードは日本の古代史を理解するキーなので、これを除くと以降の歴史の流れがわけわかんなくなる。
いまさらそれでウリナラマンセーなんていう日本人はいないんだから、ちゃんと教えるべき。(^^ゞ
■前史■
紀元前から4世紀頃まで朝鮮半島南部は漢人・夫余人・倭人・韓人の雑居地帯だった。
しかし中国王朝が衰退するとパワーバランスが崩れ、各地域が分離独立しだした。
・291年 中国王朝で内乱勃発(晋、八王の乱)
・300年頃 ヤマト朝廷発足
・313年 中国植民都市=楽浪郡、高句麗によって滅ぶ=半島大混乱
・346/356年 百済・新羅建国。ミマナ含む伽耶諸国は倭の後援を得て小国分立。
■戦争前夜■
・360年頃 百済・高句麗国境地帯に鉄鉱山発見される=紛争の火種
・367-371年 百済、倭に遣使。軍事援助を要請
・372年 百済倭軍事同盟締結。百済、誓約の証として倭に七支刀を贈る
この頃、軍事介入に反対した仲哀天皇は暗殺される。(363年)
代わりに未亡人の神功皇后が司令官、武内宿禰が副官に就任。
七支刀は石上神宮に現存。この神社は服属部族の神宝保管庫なので百済が臣従したことがわかる。
武内宿禰は蘇我氏の先祖。
■第1次百済高句麗戦争■
・369/372年 百済高句麗戦争勃発。→倭が軍事介入。
・392年 倭百済連合が勝利。そのまま倭は新羅を占領、百済・新羅を服属させる。
これによって朝鮮半島は、南北に分断される。(北=高句麗、南=倭+百済・新羅・伽耶連合)
凱旋司令官神功皇后、後任司令官の息子の応神天皇は神格化され、軍神八幡神とされる。
この辺の事跡は広開土王碑にバッチリ記述有り。(ただし、倭が高句麗まで服属させたというのは疑わしい。)
■第2次百済高句麗戦争■
・396年 高句麗南進、百済に対し反撃開始。
・400-407年 倭が軍事介入。高句麗と交戦。
(詳細不明期)
戦線膠着時、倭政府は中国政府に朝鮮半島の軍事支配権の確認をもとめ何度も遣使。
これが世に言う「倭の五王」(413-478年)。
■伽耶争奪戦■
・512年 百済は倭領任那伽耶の一部割譲を要求。
→駐百倭軍司令官大伴金村がOKする。
→伽耶諸国に対倭不信拡がり自衛のため大伽耶連合結成。
・532-562年 伽耶諸国、百済or新羅に吸収合併される。
対高句麗戦線膠着時、百済・新羅両国は重要軍需産業地帯である伽耶諸国を取り合う。
(普仏戦争でのアルザス・ロレーヌ地方のようなもの)
最重要工業地帯ミマナ=金官伽耶は新羅の手にわたる。(532年)これが半島統一の鍵となる。
■朝鮮半島統一戦争■
・589年 隋帝国成立
→598/612-614 隋高句麗戦争
・618年 唐帝国成立
→645/655/658 唐高句麗戦争
・655年 新羅、唐と軍事同盟を結ぶ。
・660年 唐軍事介入、百済滅亡
・663年 倭軍事介入、亡命百済政府とともに新羅に反撃
→唐軍事介入で敗北(白村江会戦)
・668年 唐軍事介入、高句麗滅亡
→新羅、手のひら返して唐軍を追い出しにかかる
・676年 新羅、朝鮮半島統一
・683年 日本国成立(飛鳥浄御原令)
高句麗は中国王朝との戦争に大わらわ。
その間隙を衝いて新羅が反撃を開始。最初倭との軍事同盟を求めたが拒否され、唐と同盟を結び開戦。
倭では反唐〜高句麗〜百済路線か、親唐〜新羅路線かで揺れ動く。
587年物部氏滅びる。(百済派)
645年蘇我氏滅びる。(新羅派)
668年天智天皇即位 (百済派)
672年壬申の乱。
673年天武天皇即位。(新羅派)