- 作者: 相見英咲
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/10/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「はじめに」「あとがき」にある相見さんの言には非常に共感するものがある。
私も同様で、それがためにこれまで三〇年ほどの間に、この分野の書・論文を少なからぬ数量読んできた。しかし、それによって多くの謎や疑問が解消したかと言うと、全然そうはならず、むしろ混乱の度が増しただけのように思われる。読む本の部分部分に「なるほど」と感じる程度のことで、全体を貫くがごとき確乎とした考え方を得られない。結局は話題の書や説を後追いするだけだったようだ。
一定した理解、統一的な見通しを得られないのは、つまるところ自分で直接に原資料に当たろうとせずそれから学ぼうとせず、それからすれば二次的なものでしかない諸研究にとらわれ依存し、そこにただ取捨選択を加えているだけだからである。自分自身が研究するのが一番の解決策だ。これは当たり前のことだが、しかし実行するのは大変難しい。
気質の問題ででもあるのだろうか、頭の中がわからぬことで一杯という状態にはいつまでも耐えられない。
従来の研究からは多くのことを学んだ。それは否定しない。しかし本質的には独自な分析を、始終私は貫いているだろう。I・カントは言っている。−多くの人が気楽な”未成年状態”のままでいたがり、また”後見人たち”が”成年”になろうとする者を監視し抑えつけている。しかし人間は”成年”にならねばならず、それは己の悟性を駆使することによってのみ可能になる。だから、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」、「敢えて賢こかれ!(Sapare aude)」(『啓蒙とは何か』)−と。
本書において、私はこのカントの言葉に忠実であったと思う。この点、”自分で自分をほめてやりたい”。(略)
それにしても、自分でも信じられぬほど多くの新しい考え方を私は展開した。しかも、左右双方から反撥を受けそうな考え方だ。しかし私は真理・真実にしか仕えない。
僕が廣松渉や副島隆彦が好きなのも「全体を貫くがごとき確乎とした考え方」が知りたいからなんだ。細かいところは後で剪定すればいい。太い柱、ざっくりした理解が欲しいのだ。
相見さんは1950年京都生まれ岡山大卒大阪市立大国史で博士をとった専門家である。だからやっぱり素人とは違うのだけど、業界共同体を昂然と無視してこんな本を出すのは勇気が要っただろうなあ。レスペクトである。
ただ気質の問題があるかも。(^_^;)
もっとも、左思は時の”キムタク”=潘岳をまねて外出したところ、おばさん連中にツバを吐きかけられた超ブ男だった(『世説新語』容止)。この点は私は彼とは全く正反対なわけだが(同年令で比べれば、”キムタク”にだって負けていないつもりだ)。
[『魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない』エピローグ300p]
加えてもう一つ問題が生じた。折からの不況の中で、私は近年失業した。貧は士の常と心得ているが、今は十五以下の子が三人もいる親の立場だ。悠然と南山をみているわけにはいかない。職探しで学問どころではなくなった。このことも大きい。仕事は教育方面にも一般の方面にも見つからなかった。新聞配達も経験がないと言って断られた。私は自身のエネルギー消費量をこれまでの五分の一以下に減らした。体重は十五キロ減った(体調の関係で、今は一〇キロ減にまでもどす)。金の要ることはすべてやめた。例えば、どこへ行くにも自転車かテクシー(てくてくあるく)だ。
しかし、失業者のプロテスタンティズムは何も生み出さない。何か積極的な行動が必要だ。こうして今現在私にできることとして浮かんで来たのが、本を書くこと、であり、私は勃然として本書に執筆にとりかかった、というわけである。
[『魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない』エピローグ301p]
さて、前作のつづき、ヒミコのヤマトから天皇家のヤマト朝廷が成立する経緯について相見さんはどう見ているのか?
第一章 倭国はどうして樹立されたか
・BC3C-2C 「楽浪の海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以ちて来たり献見すと云う」(『漢書』地理志)
・AC2 王莽外夷に朝貢を呼びかける。「東夷の王は大海を度りて国珍を奉じ」(『漢書』王莽伝)
・AC57 「東夷の倭の奴国の王、使を使わし奉献す」(『後漢書』光武帝記)
・AC107 「倭国の王師升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(『後漢書』倭伝)・AC107年に倭国は成立した。範囲は狗奴国=濃尾平野以西の西日本+九州
倭国連合として王様を共立して漢に承認して貰った。
・最初のリーダーに選定されたのは奴国首長だった。
・海人アヅミ族ネットワーク。ナ国は最大根拠地。志賀島はアヅミ族の聖地。(アヅミ=海ツ耳?)
・アヅミ族の氏神=シオツツオジ(潮津々爺)、ネットワーク=○○ナ国。クナ国を含む。
・ミマナ=朝鮮半島にあったアヅミ族ネットワークの根拠地。「任那加羅」(広開土王碑文)→のちの「狗邪韓国」
・クナ国の叛乱
第二章 神々と邪馬台国
・もうひとつの海人ネットワーク、イズモ族。
・1984 荒神谷遺跡、1996 加茂岩倉遺跡
『出雲国風土記』神社数358(新規追加41除く)=荒神谷遺跡の銅剣数358=イズモの村長数
「古老の伝へていへらく、天の下造らしし大神の御財を積み置き給ひし処なり」(『出雲国風土記』大原郡)=39個の銅鐸
・イズモ=投馬国(5万余戸)
・磯輪辺り(大和盆地)はもともと三輪山(=蛇がとぐろをまいた姿)に蛇神をまつる先住民のクニがあった。
その後イズモ族が侵入した。(内つ国)
イズモ族のオオナムチ神が蛇神と融合してオオモノヌシ神となった。オオモノヌシはヤマト国の神。
・ウチツクニをヤマトと名付けたのは物部氏。(アマノコヤネが名付ける)
第三章 初期九天皇は実在か架空か
・後代の創作にしては不可能な名前、不都合な陵墓位置、不都合に少ない人数。
・稲荷山鉄剣の銘文闕史八代中の8代孝元天皇の皇子で四道将軍オオヒコに始まる系図。世代と人数の辻褄が合う。
・『古事記』国生み神話での九州(日の国)のチョンボの復元日に向かう国はあまり良いイメージではない。創作なら敢えてそんなところを出身地にはしない。
第四章 皇室の真正系図と記紀神話
・皇室氏は日向に入り、アヅミ系隼人族と混淆した。(神アタカシツ姫)神武に始まる初期九天皇は実在の人物であった。しかし彼らは<倭王=日本国王>ではなかった。皇室がそれになったのは四世紀初頭の一〇代崇神天皇においてであって、列島の王家は、<奴国王家→伊都国王家→邪馬台国王家→皇室>というふうに変遷したのだ。
[p118]ツングース系民族の中には、さらに朝鮮半島を越えて日本列島に入って来た者もいた。その時期は一世紀に入る前後頃と推測されよう。皇室氏・物部氏・尾張氏・出雲臣氏・天若日子神族・中臣氏・大伴氏・忌部氏などは九州島に入った。山陰の出雲へ入った者もいて、スサノオ神族・アジスキ神族などはそれだった。
[p119]・皇室氏は最初豊国香春にいた。(忍骨尊神社)その後事情があって赤ん坊のニニギを抱えて日向に避難した。オシホミミは「倭国大乱」で戦死?
第五章 邪馬台国から皇室へ
・崩年干支は信用できる。
・崇神天皇の崩御は318年。
・物部氏・尾張氏はもと九州甘木市辺りに居住。皇室氏のようにしくじらずヤマト入り。新天地に元住所と同じような地名を付けた。
(なお、尾張氏はクナ国の叛乱鎮圧後にヤマトから尾張に移動した。)
・天若日子神族は出雲に乗っ取りを図ったがイズモ族に殺され断絶。
・天穂日神族は倭国争乱時に旧イズモ首長を倒し成り代わる。
・ヤマト朝廷成立直前、物部氏の手下の中臣氏が天穂日子神族に服属を迫る。(国譲り)(タケミカヅチ・フツヌシの神剣)
・なお、タケミナカタ神の抵抗物語は本来イズモの国譲りとは別。
・神武東遷は220年頃。ヒミコ時代。ヒミコと神武は同時代人!
・市場監督長官=大倭=大ヤマト 和風諡号はヤマト国の官職名!いつの間にか天皇氏が独占!
(ちなみにミマツヒコはミマナ=狗邪韓国の長官)01)神武 神ヤマト(イワレ)ヒコ
02)綏靖 神ヌナカワミミ
03)安寧 シキツヒコ
04)懿徳 大ヤマトヒコ
05)孝昭 ミマツヒコ
06)孝安 大ヤマトヒコ
07)孝霊 大ヤマト(ネコ)ヒコ
08)孝元 大ヤマト(ネコ)ヒコ
09)開化 大ヤマト(ネコ)ヒコ
10)崇神 稚ヤマト(ネコ)ヒコ・開化天皇(オオヒヒ)はヤマト国の有力豪族ナガスネヒコに闘いを挑み、物部氏の協力もあって勝利した。
・このときの内戦の逸話は神武東征時のものに置き換えられた。
・天日槍は280年頃来日し、320年頃4代目清彦のとき服属。即ち”万世一系の天皇観”であるが、これが確かでさえあれば、個々の天皇が君子であろうが暴君であろうが、長い歴史の中ではどう伝えられても良いこと、と考えられた。従って、この万世一系の天皇観の下、記紀は天皇が実際に暴君であった場合、少しも隠すことなく、あからさまに描いている。(中略)書紀がこのような客観的な態度をとれたのは、逆説的な話だが、なんと”万世一系の天皇観”=皇室史観のおかげなのである。
第六章 倭王神功皇后と”倭の七王”
・360年頃、国境地帯の谷邦に鉄鉱山発見される。→369年・372年 百済・高句麗戦争勃発。→倭国の援助得た百済が勝利する。
・363年、仲哀天皇崩御(朝鮮出兵反対を表明して暗殺された)
・石上神宮はもともと服属部族の神宝保管庫。ということは七支刀は百済服属の証。
・応神天皇の名前換え神事=朝鮮国神を身体化する儀式=朝鮮直接支配の準備。
・百済を服属させたヤマトは新羅にも服属を要求。
・396年、高句麗ついに百済に対し開戦。
・400年/404年/407年、高句麗、ヤマトと直接交戦。
・「倭の五王」の遣使は朝鮮対策。派遣した天皇は、16-21代天皇+26武烈天皇