広義の玉砕命令

nyankosensee2007-10-02

   
ちょっと前のことになるが、沖縄で教科書記述を巡って大集会があったという報道に接して違和感があった。
というのも「参加人数が11万人」という言い方だったからだ。ふつう政治集会って「主催者側発表○○万人」「警察発表○○万人」って両論併記するのにへんだなぁと思ったのだ。
  
あんまりmixiに書くべきことじゃないかもしれないが、漏れはむかしこの手のサヨク集会には良く出ていたのだが、主催者側発表と警察発表がいつも2〜3倍食い違うことに違和感を感じて自分なりに数えてみたことがあったのだが、どっちかというと警察側発表のほうが正確なようだった。だからこういう集会では両方の数字を見比べて自分なりに補正する癖がついている。
  
なんてこと思っていたら、産経新聞に漏れとまったく同じ感想を発見した。呉智英先生と秦郁彦さんだった。やっぱ漏れってウヨクなんだろうか?ψ( `∇´ )ψ
    
『私は学生時代からこの種の誇大な「主催者側発表」に疑問と怒りを抱いていた。参加したデモや集会の参加者数が自分の実見した数よりどう考えても水増しされている。これについて学生自治会政治団体の指導者に問うても、誰もまともに答えてはくれなかった。新聞や雑誌の記事や論評で取り上げられた例も知らない。そして、左翼退潮の今に至るまでこの陋習は続いていたのだ。』【2007.10.19 産経新聞紙面】
     
『そもそも大型の集会やデモの参加者は主催者発表と警察発表の2種類があり、新聞は両方を併記するのが慣例になっている。たとえば戦後最大のデモとされる60年安保騒動の数字を朝日の縮刷版で調べると、「空前のデモ 国会を包む」の見出しがついた5月26日は17万5000(主催者)対6万人(警察)、6月19日は33万対13万人というぐあいで、2〜3倍の開きがある。』
TITLE:【正論】集団自決と検定 現代史家・秦郁彦 - MSN産経ニュース
DATE:2007/10/27
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071026/edc0710260307001-n1.htm
     
ここからは漏れの勝手な推論なのだが、なんで主催者が11万人に拘ったかといえばきっと

なんだか、教科書検定で沖縄が燃えているらしい。
この件ある意味で関わりがなくもないので気になった。
   
問題は「日本軍が住民に自殺を命令した」かどうかである。
     
当時の異常な状況によって事実上命令された、というのはナシである。
それなら検定合格した教科書にも示唆されている。
Q:日本軍が組織命令として住民に自殺を強要した? A:YESorNO
    
この集団自決は沖縄全域であったかというとそうではない。
集団自決は離島部が中心。沖縄全土で1000名程度らしい。
そのうちこの訴訟関連の集団自決死者616名、過半を占める。
この島々での事件の研究が集団自決は日本軍命令だとする根拠となっているため、この訴訟に負けることで集団自決日本軍命令説は崩壊する。
     
だが、非命令説には明確な根拠がある。
したがって、サヨクは以下のどれかを証明して勝利しなければならない。
    
①非命令説の根拠となった証言は価値がない。
②非命令説の証言者はうそをついている。
③他に証拠がある。
     
一番決定的なのは③なのに、これだけ騒がれていても他の証拠が出てこない。
したがって、非命令説にケチをつけるのがサヨクの戦術となっている。
しかし、もし証言者が本当のことを言っているとしたら、彼らは真摯な証言者を政治的に脅迫していることになる。
逆のことがあった場合大騒ぎする彼らが自分の正義は露ほども疑わず攻撃することが恐ろしい。
          
ところでひとつの焦点となっている集会人数であるが、実数が何人かは兎も角、皆に質したいのは、政治集会の主催者側発表人数なんか信じているのか?ということだ。かなりの人数がいたとしても主催者側発表人数が(特にサヨク集会では)誇張されるのは常識ではないか?運動に関わったことのある人やマスコミ関係者なら知らないわけがない。にもかかわらず11万人をそのまま受け取ることに違和感を覚える。実数は警察発表〜主催者側発表の間のどこかと考えるのが妥当だ。
    
漏れの経験から言うと主催者側発表と警察発表は2〜2.5倍食い違うのが普通だった。(ある集会で40人しかいなかったのに新聞では100人とかかかれた経験もある。さすがに40人なら数え間違えはない。)すると11万なら4〜5万人かなあ、と思っていた。そうしたら案の定、本当は4万2〜3千人との説が漏れてきた。なぜそれを発表しなかったのかといえば、沖縄少女輪姦事件のときに主催者側8万5千人に対し5万8千人と発表して抗議されたからというのだ。沖縄県警は誰に遠慮しているのか?
       
ずばり沖縄県警が遠慮したのはアメリカ軍である。
沖縄では日本軍=悪魔というのが米軍公認の歴史認識である。
これは「アメリカに支配されるほうが良い」と思わせるための根拠になっているのである。
したがってこれを否定することは究極には反米活動なのである。ヤスクニ問題と同じ構図だ。
この洗脳のために沖縄のマスコミは育成懐柔されてきた。アメリカの手先となる政治家も育てられてきた。
(太田昌国という人もアメリカで育てられたあやしい政治家だ。彼ははっきりとアメリカより日本ばが嫌いだと語っている。)
政府自由民主党も米軍基地の存続のためにはいまや存在しない旧日本軍を悪魔化することに異存なかった。福田=霞ヶ関があっさりと11万人を認めた背景はそこにある。(逆に公然の反米集会であった少女強姦糾弾集会では沖縄県警は躊躇無く実数6万人弱を公表していた。)
         
ところでこの集会は成功だったのか?
漏れは失敗だったと考えている。
というのは、彼らの動員目標は「史上最大」=少女強姦糾弾集会を上回ることのはずだったからだ。(その意味で朝日の記事は予定稿である)
つまり少女強姦糾弾集会=主催者発表8万/警察発表6万に対して、今回11万/4万にすぎなかった。
昨今のサヨク低迷期にしては良く集めたとは言えるが、負けは負けである。
サヨクは今回集会を敗北と認められるだろうか?
おそらくできないだろう。ずっと11万人を強弁しつつ信用をますます失ってゆくだろう。元サヨク呉智英が慨嘆するとおりだ。
      
ところでサヨクのこの体質。無謬を強弁し反省撤回ができない、というのは極めて日本的かつ官僚的だと思う。
全共闘の自滅的闘争が旧軍の玉砕戦に似ているとはよく指摘されることだが、漏れが今回の集会で思い出したのは台湾沖航空戦だった。
思えば2002年の9.17(小泉訪朝)がミッドウェイであった。
あれ以来サヨクは連戦連敗である。
そのサヨクが回天を期して企画した反撃戦が今回の沖縄集会だった。
そこに願望から現実を直視せず過大戦果をだれも訂正できないのである。
まさに台湾沖港空戦だ。
どうして歴史に学べないのかなあ・・・
                   
なお、漏れはこの集会が20万人で集団自決が日本軍の命令だったとしても沖縄での日本軍の扱いに関しては納得できない。
住民の犠牲者は約10万人。スパイ容疑で処刑されたり、集団自決した人数は1000人程度で1%。残り99%は米軍との戦闘中に死んだ人達だ。とくにバックナー中将殺害後の虐殺は後のベトナム戦争の前哨となったひどいものだったことはもっと認識されるべきだ。
また、日本軍の死者も10万人。住民を処刑したり自決を強要した日本兵の数は犠牲者数から逆算してもせいぜい数十人である。犯罪的な兵士がいたとしても99%の兵士が沖縄と日本を守るために抗戦し死亡しているのだ。それを一律に犯罪者のように描くことに政治的意図を感じさせずにいられない。彼ら真面目な兵士の名誉を一顧だにしない冷酷さは異常である。
    
サイパン玉砕者の70%が沖縄出身。
    

    
<集団自決の全体像>
    
座間味村 287  (3.26)
渡嘉敷村 329  (3.28)
読谷村  121  (4.1-3)
沖縄市   33+α (4.1-10)
うるま市  14  (4.4)
伊江村  100+α (4.10)
八重瀬町  7  (5.30)
糸満市   80  (6.11-20)
恩納村   11  (----)

                                                • -

合計   982+α≒1000人
   
http://www.ryuukyuu.com/chiiki/jiketu.html
   

座間味島
   
1944年9月   梅澤裕少佐を隊長とする海上挺進第1戦隊が座間味島に駐屯
1945年3月23日 米機動部隊来襲、座間味集落全焼
1945年3月25日 空襲と艦砲射撃、「忠魂慰霊碑前に集合、玉砕」の連絡で住民集合するが空襲が激しく防空壕に避難
1945年3月26日 米軍上陸、組合壕などで「集団自決」(集団死)177人
1945年3月29日 米軍が座間味島を制圧
1945年4月10日 米軍の攻撃、梅澤隊長負傷し日本軍組織的行動とれず
1945年4月29日 住民の米軍への投降始まる
1945年5月下旬 梅澤隊長、包囲により米軍へ投降

渡嘉敷島
   
1944年9月   赤松嘉次大尉を隊長とする海上挺進第3隊が渡嘉敷島に駐屯
1945年3月20日 日本兵が住民20数人に手榴弾を配布
1945年3月23日 米機動部隊来襲、役場・郵便局が全焼、住民は壕に避難
1945年3月27日 米軍上陸、兵事主任より住民に谷間に集合の命令
1945年3月28・29日 軍による命令が出たとの情報が伝えられ「集団自決」(集団死)329人
1945年3月31日 米軍撤退
1945年4月15日 住民避難を勧めた少年2人が赤松隊により殺害
1945年5月   投降を呼びかけた住民6人が赤松隊により殺害
1945年8月17日 投降を呼びかけた住民など4人が赤松隊により殺害
1945年8月17日 赤松嘉次隊長ら米軍に投降

URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E%E3%83%BB%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%A3%81%E5%88%A4
URL:http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html

<梅澤少佐>
   
大江健三郎沖縄ノート」(1970年、岩波書店
家永三郎 「太平洋戦争」(1968年、岩波書店
曽野綾子 『ある神話の背景』(『諸君』1971.10-1972.8)
宮城晴美 『母の遺したもの』(2000、)
訴訟(2005)
    

母(宮城初枝)が「集団自決の命令は、梅沢隊長ではなかった。でもどうしても隊 長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、1977年のことだった。そして、「梅沢さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。
それから三年後の1980年、私は知人を介してようやく梅沢氏の所在を知ることができ、手紙を送った。そして、その年の12月中旬、私は職場近くのホテルのロビーで母と二人、梅沢氏と面会した。梅沢氏は私がマスコミを連れてきてはいないかと、しきりにあたりを見回している。母が梅沢氏に、「どうしても話したいことがあります」というと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、35年前の3月25日の夜の出来事を順を追って詳しく話し、「住民を玉砕させるよう、お願いに行きましたが、梅沢隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅沢さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽した。
(宮城晴美 『母の遺したもの』から中学生向けに要約)<<    
そして昭和62(1987)年3月、梅沢隊長は座間味島の慰霊祭に出席しました。この時、国にウソの申請をした宮村幸延氏も梅沢隊長に直接謝りました。
   
何十年もたって謝罪された梅沢隊長はこう言いました。 「今まで自分は心中穏やかではなかったけれども、それで村が潤い、助かったのだから、いいじゃないか」と。
   
URL:http://72.14.235.104/search?q=cache:AnKe5eVA5pUJ:www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_hattori2.html+%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E5%88%9D%E6%9E%9D&hl=ja&ct=clnk&cd=26&gl=jp

「母の遺したもの」の著書の宮城晴美さんも自決命令はあったと明言
     
1945年3月26日、沖縄県座間味島で凄惨な「集団自決」が発生したが、生存者である宮城初枝さん(故人)は、座間味島の駐留部隊の梅澤裕隊長からの「自決」の命令は受けていないと語ったという。
これは宮城さんの娘の晴美さんの著書である「母の遺したもの――沖縄・座間味島『集団自決』の新しい証言」でも取り上げられている。
     
「日本軍による自決命令は無かった」と主張する一部の輩は、これを梅澤氏による自決命令など無かったと主張する根拠にしているが、その宮城晴美さんが大江健三郎岩波書店沖縄戦裁判に出廷し、自決命令は存在したであろうと述べた。
     
◆体験者の娘「集団自決は軍が命令」 「沖縄ノート」訴訟 (魚拓)
◆「命令主体は戦隊長」/裁判の核心著作 宮城さん証言 (魚拓)

宮城さんは、「原告の梅澤氏が『集団自決』を覚悟した村の幹部に『決して自決するでない』と言って帰したと主張していることについて、『今晩はお帰りください』と言ったにすぎないと考えられる」と、つまり母の初枝さんが自決命令を受けていなかっただけであろうと述べたのである。
     
「住民の『集団自決』は軍の命令や指示によるもので、その最高責任者は部隊の指揮官。戦隊長命令がいつどこで具体的に出されたかは分からないが、命令の主体は戦隊長」
     
梅澤氏による命令の有無など証明することは出来なくとも、「集団自決」の強要の責任は現場の部隊の指揮官にあり、旧日本軍にあるということである。著書の中でも宮城さんは次のように述べている。
「・・・・しかしながら、畳二枚に21発という圧倒的な砲火にさらされ、完全に逃げ場を遮断されて、心理的にも徹底的に打ちのめされた住民が現実に米軍と向き合ったとき最後にとった行動は、『玉砕』だった。捕らえられれば女性は凌辱され、子どもまで虐殺されるという恐怖心から、せめてこの手でと、わが子をはじめ愛する者を次々に殺し、自らも『死』の途を選択した。そこではもはや、『隊長命令』は本質的な問題ではなかった。細胞のすみずみにまで染み込んだ『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を『玉砕』へと導いていったといえる。それは、明治以来、人々を洗脳しつづけた『国家』による住民への『死への強要』以外の何ものでもなかった。『集団自決』は、まさに“皇国日本”の総決算であったといわなくてはならない」(P-275)
「集団自決」とは日本帝国主義による住民虐殺であったことを忘れてはならないだろう。
    
URL:http://himadesu.seesaa.net/article/49617522.html

体験者の無念 代弁/隊長側、重ねて否定
     
【大阪】大阪地裁で二十七日開かれた「集団自決」訴訟の証人尋問。原告の戦隊長側と、被告の大江・岩波側の証人が約五時間にわたって主張をぶつけ合った。被告側証人の宮城晴美さんは座間味島での聞き取りを通じ、「集団自決」に軍命があったと断言。体験者の無念さや絶望感を代弁した。一方、原告側は渡嘉敷島に駐屯した戦隊長の元部下らが「戦隊長からの命令は聞いていない」と繰り返した。逃亡した住民の処刑など日本軍の加害を裏付ける証言もあり、法廷は緊迫感に包まれた。
     
宮城さんは上下黒のスーツで出廷。約二時間、落ち着いた口調で答えた。
     
軍命の有無について、宮平春子さんが、座間味村兵事主任で助役(当時)だった兄の宮里盛秀さんから聞いた「軍からの命令で敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」との証言を引用。
     
内容の信ぴょう性に疑義を唱える戦隊長側に「自決した人の本当の気持ちを聞いたことがありますか?」と問い掛け、「泣きながら子どもを抱いて自決に追い込まれた犠牲者に、言葉を自分でつくるゆとりはない」と語気を強めた。
     
戦隊長側の証人に立った、海上挺進第三戦隊長の副官だった県出身の知念朝睦さん。沖縄戦の実相を描いた「鉄の暴風」に記述された「米軍が上陸したら玉砕するように」との戦隊長からの指示を「あります」と認めたが、すぐに「聞いた覚えはない」と訂正、岩波側に追及されると「記憶がない」と答えた。
     
米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が戦隊長に「汚名をどうつぐなうか」と追及され首をつった事件で、岩波側は「戦隊長は捕虜になることを許さなかったのか」と質問。知念さんは「ううむ…」と考えた末に「はい」と認め、投降を許さなかった当時の軍の方針を明らかにした。知念さんは投降勧告した伊江島の女性を銃で処刑したことなども証言した。
     
捏造証言元職員「援護課に勤務」原告側反論
      
被告側が前回の弁論で、軍命を捏造し、渡嘉敷島住民に援護法を適用させたとする元琉球政府職員の証言について、援護法の適用方針が明確となった一九五七年には援護課におらず、「信用できない」と主張したことを受け、原告側は二十七日、琉球政府の援護事務嘱託辞令(五四年十月付)と旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員辞令(五五年五月)を証拠として提出。五四年から元職員が援護課に勤務していたと反論し、「元職員は、援護事務の一環として住民の自決者についても情報を集め役所に提出。この結果が後に、『集団自決』に援護法適用が決定されたときの資料として活用された」と主張した。
     
「命令あった」反対尋問切り返す/宮城さん
     
「自尊心を傷つけられてもいい。答えるチャンスをもらった」
     
二十七日午後、約二時間の証人尋問を終えた宮城晴美さんは、淡々と語った。
     
法廷では、はっきりした口調で反対尋問を切り返した。座間味村兵事主任で助役(当時)だった宮里盛秀氏の妹・宮平春子さんが証言したことで、隊長命令はなかったとした認識を変更することに触れ、「新たな証言が出たので、認識を変えたことについて答えることがしんどかった」と語った。
     
母の希望でまとめた著書「母の遺したもの」の証言の一部が原告側の自決命令がなかったとする主張に使われたが、この日まで沈黙してきた。証人尋問を前に、宮平さんが証言したことに後押しされたという。
     
著書の表現の仕方で反省する部分もあるとし、「原告側は沖縄戦の実相や『集団自決』の悲惨さをまったく分からず、個人の名誉を勝ちとろうとすることだけを野放しにしてはいけない」と強調した。証言後は、「亡き母に『集団自決』は軍が仕向けたということを原告側へ伝えられたことを報告したい」と語り、大阪地裁を後にした。
     
論戦 双方手応え「関与認めた」「混同明らか」
      
 沖縄戦時に慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)」をめぐる訴訟は二十七日、証人尋問が始まった。出廷した代理人や傍聴した関係者は、互いの主張や相手の矛盾を引き出せたとして、それぞれに手応えを感じていた。
     
 琉球大学高嶋伸欣教授は「戦隊長側が『集団自決』への軍の関与や責任を認めたのは大きな成果だ」と指摘。「集団自決」への日本軍の関与を削除した高校歴史教科書検定の根拠が崩れたとの認識を強調した。

 歴史教育者協議会の石山久男委員長は、戦隊長側証人の皆本義博さんの証言に着目。「戦隊長からの命令はなかったという主張だが、『集団自決』前後に一緒に行動していないことが分かった。命令がないと証明できないことになる」と述べた。

 一方、戦隊長側代理人徳永信一弁護士は、大江・岩波側証人の宮城晴美さんについて「戦隊長の命令と軍命や軍の責任は明確に分けて考えるべき問題だが、これらを混同していることが明らかになった」と指摘。戦隊長から直接の命令があったことは立証されていないとの認識を示した。
      
琉大教授ら抗議決議
     
 琉球大学教授職員会(会長・上里賢一法文学部教授)は二十七日、定例総会で文部科学省の高校歴史教科書検定沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する記述から日本軍の関与が削除されたことに抗議する特別決議を採択した。決議文は「戦後歴史学の成果である沖縄戦の研究や体験者の証言の集積によって明らかになっていることは、沖縄戦における『集団自決』は軍隊による命令、強要、誘導なしには起こりえなかった」と指摘。「検定結果が著しく沖縄戦の実相を歪め、戦争の本質を覆い隠し、生命の犠牲を賛美するのではないかと危惧する」とし、文科省に対し、修正指示の撤回と記述の回復を求めた。決議文は文部科学省と県、大学当局などに送付する。
    
URL:http://www.okinawatimes.co.jp/day/200707281300_02.html

       
<赤松大尉>
     

照屋昇雄 てるやのぶお
    
那覇市在住。
    
琉球政府社会局援護課職員旧軍人軍属資格審査委員会委員として、昭和二十年代に聞き取り調査などを行った。
  
渡嘉敷島でも聞き取りを実施し、住民への援護法に基づく年金や弔慰金の支給を決めた。その際、終戦時に海上挺進隊第3戦隊長だった元大尉・赤松嘉次氏が住民に自決を命じたとの書類を作成したが、2006年、産経新聞の取材に「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。
  
その前年には藤岡信勝拓殖大教授に同趣旨の内容を証言しているが、藤岡教授によるとその際は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと匿名を藤岡氏に要求したとしている。
    
赤松大尉の「自決命令」に関しては、大江健三郎氏の「沖縄ノート」などに記述が在る。
     
URL:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%C8%B2%B0%BE%BA%CD%BA

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府照屋昇雄さん/産経新聞 [社会] 2006.08.30.
      
第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
     
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
     
照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと
思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
    
300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)
                  ◇
【用語解説】渡嘉敷島の集団自決
 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴弾のほか、鎌、鍬などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。
【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法
 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。
                  ◇
≪「大尉は自ら十字架背負った」≫
     
「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。
      
赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻撃。ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。
    
戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。
      
照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、
厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。
      
ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で
抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。
     
渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。
     
同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。
     
今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。
     
照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。その様子は同社ホームページで視聴することができる。
                  ◇
≪「真実はっきりさせようと思った≫
 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。
 −−なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」
 −−当時の立場は
 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」
 −−渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」
 −−その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
 −−ではなぜ集団自決をしたのか
 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴
弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
 −−集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」
 −−赤松元大尉の反応は
 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
 −−住民は、このことを知っていたのか
 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
 −−あらためて、なぜ、今証言するのか
 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
産経新聞
URL:http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm

沖縄教科書抗議集会、参加者は「4万人強」 主催者発表11万人にモノ言えず
2007.10.6 22:47
    
9月27日付の地元紙朝刊には「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会」用の県民向けバス無料乗車券付き広告が掲載された 先月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の参加者数が主催者発表の11万人を大きく下回っていたことが明らかになった。県警幹部は産経新聞の取材に「実際は4万人強だった」(幹部)と語ったほか、別の関係者も4万2000〜4万3000人と証言している。集会は、県議会各派や市長会などが実行委員会となり、沖縄戦で日本軍が直接、住民に集団自決を強制したとする記述が削除・修正された高校教科書検定の撤回を求めたもの。渡海紀三朗文部科学相は参加者数を主な理由に対応策を検討、国会でも誇張された11万人という数字をもとに論争が進んでいる。
     
(比護義則、小山裕士)
     
 ■1平方メートルに4人?
     
 集会が開かれた海浜公園の多目的広場は約2万5000平方メートル。仮に会場に入りきれなかった人を1万人と見積もれば、1平方メートル当たり4人いた計算になるが、多くの参加者は座っていた。
    
 会場は、東京ドームのグラウンド部分(1万3000平方メートル)の約2つ分にあたるが、同ドームのスタンドを含めた建築面積は約4万6800平方メートルあり、グラウンド部分を含めても最大5万5000人しか収容できない。
    
 大会事務局幹事の平良長政県議(社民党)は、算出方法について、「一人一人をカウンターで計算しているわけではない。同じ場所で開かれた12年前の米兵による少女暴行事件の集会参加者数8万5000人(主催者発表)を基本にした。当時に比べ、会場周辺への人の広がりは相当なものだった」と語り、主に日米地位協定の見直しを求めた平成7年の県民大会の写真と比べながら、算出したと明かした。また、参加者を大量動員した連合沖縄は「自治労沖縄県本部や連合沖縄から応援を出し、10人ぐらいで会場周囲を歩いて、入り具合をチェックした」(幹部)としている。
     
URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/071006/stt0710062247005-n1.htm

■論理の整合性の問題である   呉智英
    
 先月二十九日、沖縄で「十一万人」の左翼・革新系の集会が開かれた。戦争末期の集団自決への軍関与を曖昧(あいまい)にする教科書改定に抗議するものだ。軍の「関与」を厳密に解釈するか広義に取るかで意見は分かれるが、今はそこには立ち入らない。とにかく、近頃(ごろ)にない大規模な政治集会だった。
     
 ところがその参加者数がおかしい。主催者側発表では二万五千平米の会場に十一万人だという。四畳半(七・五平米)に三十三人の計算になる。常識的に見て無理な数だ。しかも、会場の航空写真では、所々にあきが見える。どうもおよそ三倍増の誇大発表らしい。
     
 この集会について産経新聞朝日新聞とで論争が起きた。論争は歓迎だが、望むらくは新聞同士ではなく大会主催者と論争が起きてほしかった。
     
 私は学生時代からこの種の誇大な「主催者側発表」に疑問と怒りを抱いていた。参加したデモや集会の参加者数が自分の実見した数よりどう考えても水増しされている。これについて学生自治会政治団体の指導者に問うても、誰もまともに答えてはくれなかった。新聞や雑誌の記事や論評で取り上げられた例も知らない。そして、左翼退潮の今に至るまでこの陋習(ろうしゅう)は続いていたのだ。
     
 これは単なる計測精度の問題ではない。論理の整合性の問題である。だって、戦時中の大本営発表を嘲弄(ちょうろう)してきた自分たちが同じことをしていたらまずかろう。南京事件の犠牲者の数をごまかすなと主張してきた自分たちが参加者の数をごまかしたら厚顔無恥というものではないか。沖縄戦の犠牲の真相を隠蔽(いんぺい)するなという抗議集会で自らの参加者数の真相を隠蔽していたら説得力はゼロだ。
     
 私は、左翼・革新に「自浄能力」はないと思う。いや、左翼・革新だけではないのだけどね。(評論家)
    
【2007.10.19 産経新聞
     
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