テンプル騎士団とユダヤとスコットランドとイングランド銀行

 

 

   
どうもすっきりしない話題。
どうも近代的な金融業は十字軍によってイスラム金融接触したテンプル騎士団に始まるらしい。
テンプル騎士団ローマ教皇に潰されるが各地に分散潜伏。スコットランドにも。
テンプル騎士団キリスト教異端。
宗教改革キリスト教異端。ユダヤ教先祖帰り。
オランダのユダヤ人。
 

1096〜1312 テンプル騎士団
1453      東ローマ帝国滅亡
1410〜1494 メディチ銀行
1492〜1808 スペイン異端審問
1517      ルター95条論題
1559      イングランド国教会独立
1603      スチュアート朝
1642〜1649 ピューリタン革命
1648      ヴェストファーレン条約
1668      スウェーデンリクス銀行設立
1688      名誉革命
1689〜1702 ウィリアム3世
1694      イングランド銀行設立
1714      ハノーヴァー朝
1720      南海泡沫事件
1776      アメリカ独立宣言

   

イングランド銀行設立から見えてくるもの
 
昨日も少し触れたことだが、イングランド銀行が確立されたことは現在の我々にも大きな影響を与えている。そこでもう少し、このイングランド銀行を検証したい。
 
イングランド銀行の設立が1694年であり、このイングランド銀行が近代的中央銀行制度の模範になっていると言えることから、イングランド銀行が設立されたことの意味やその背景を考えることで何かが見えてくるかもしれないと思っている。
 
(略)
 
まず、イングランド銀行設立の時代の統治者に注目することが重要だろう。イングランド銀行に独占的な発券権利=通貨発行権を与えた統治者(国王)とそれ以後の統治者(国王)ということになる。
 
女王エリザベス1世(テューダー家)が亡くなるとスコットランドからジェームズ6世がやってきてジェームズ1世として君臨した。スコットランドの王朝はスチュアート朝だったことから、この1603年がイングランドでのスチュアート朝の始まりである。ジェームズの子であるチャールズが1625年から国王になると、不満の蓄積が爆発したからか革命(清教徒)が起こり処刑されてしまう。その後、王政復古によりチャールズの息子であるチャールズ2世が1660年に亡命先(フランス)から帰国し国王となり、1685年に亡くなると、チャールズ2世の弟であるヨークがジェームズ2世として王位を継いだ。ジェームズは前国王と同じように親仏派だったと言われている。
 
このスチュアート朝時代には、イギリス東インド会社オランダ東インド会社がアジア地域の貿易支配で争っていたように、経済的に全盛期にあったオランダと戦争が行なわれていた。そして世界貿易においてイギリスがオランダを圧倒するようになった。この時代のオランダの統治者は、現在も存続しているドイツ起源のオラニエ家(オレンジ公)である。
 
さて、ジェームズ2世のときに起こったのが1688年の「名誉革命」である。この「名誉革命」でジェームズ2世はフランスに亡命(追放)した。このときオランダからやってきたのがオランダ総督オレンジ公ウィリアム(オランダ名でウィレム)である(ウィリアムの妻はジェームズ2世の長女メアリー)。そしてこのウィリアム(3世)が1689年に統治者として国王となり、ケンジントン宮殿で死去する1702年まで君臨した。これにより英蘭戦争を繰り返していたオランダとは“同盟”のような関係(正確にはメアリーとの結婚からとも言える)になったが、ウィリアムの「敵」であるルイ14世が君臨するフランスとの戦いに引き込まれていくことになる。これによって戦費(借金)が増大したはずである。
 
フランスとイギリスの「スペイン継承戦争」や植民地アメリカ大陸での植民地争奪戦などは“ブルボン王朝と名誉革命政権との戦争”と言えるだろう。
 
イングランド銀行の設立は1694年であるからこのときの国王はウィリアム3世(メアリーとの共同王位)であり、イングランド銀行に発券業務=通貨発行権を与えた(特許)のはウィリアム3世である。ウィリアムはオランダとイングランドスコットランドこれら3国の君主だったわけだが、イングランド銀行を設立したのは、初代大蔵卿チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)とスコットランド人のウィリアム・パターソンであった。チャールズ・モンタギューはニュートンの弟子であり、ニュートン造幣局長官に就任したのはモンタギューの任命による。また、1695年にはスコットランド銀行発券銀行)も創業している。
 
※ 追記
サー・ジョン・フーブロン(Sir John Houblon:1632-1711)
イングランド銀行創始者。1632年に7人兄弟として生まれる。フーブロンと他の兄弟4人はイングランド銀行設立メンバーとなり、1694年にフーブロンが初代総裁となる。在職期限の1697年まで勤務したが、亡くなるまで管理者として勤続しました。
 
もうひとつ注目しておくことがある。ウィリアム3世が亡くなるとメアリー女王の妹アンが女王になるが、このとき1707年にスコットランドとの関係を「連合」から「合同」にした(グレート・ブリテン王国の成立)。イギリスはスコットランドからジェームズ6世がやってきてジェームズ「1世」を名乗って以来スチュアート王朝になったわけだが、これは「同君連合」であり国家としては別々であった(スコットランドはフランスと友好関係にあり“外国人”のウィリアムが国王になることをすんなり認めなかった)。この“併合”により以後のスコットランドスチュアート朝)はイギリスの歴史に合流したことになる。注目するのは次である。
 
アン女王が1714年に亡くなると、ドイツのハノーヴァー家からやってきたゲオルクがジョージ「1世」として国王になった。このとき王朝がスチュアートからハノーヴァーにかわったのである。ここから英国はハノーヴァー朝になった。21世紀の現在もこのハノーヴァー朝(現ウィンザー家)が続いている。ハノーヴァー朝ザクセンコーブルク=ゴータという家名を持ち、オランダから独立したベルギーでは、初代ベルギー国王のレオポルド1世がザクセン=コーブルク=ゴータ家であり、これは現在も続くベルギー王国の起源になっている。上にも書いたように、オランダの統治者オラニエ家(オレンジ公)もドイツに起源を持つ。
 
以上のことから見えてくるのは、この時代に英国は乗っ取られたということになる。英国に“寄生”した主体は「国際金融家」であろう。莫大な戦費を必要としていた英国に、イングランド銀行は国家の債券を担保に「銀行券」を発行していた。そして紙幣が発行されたのである。すなわち「金本位制」が本格的に確立されたということ。これは“大事件”である。商業銀行が金貨を預かり紙幣を渡すシステムになったことで何が起こるか。
 
URL:http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507290000/

「南海泡沫事件」を起こした金融家たちは、オランダで「チューリップ恐慌」を経験したのでバブルの実態を“学んだ”はずである。「南海泡沫事件」も常軌を逸した投機ブームだったと言われるように、このバブル崩壊でとんでもない混乱が起こり多くの破産者を生み、政権は崩壊したのである。ここから議院内閣制の基礎が築かれた。バブル崩壊で消えたカネ(資産)は消えたわけではなく誰かが持っていったのである。このときまだロスチャイルド家は誕生していない。
   
イングランド銀行スコットランド銀行の設立にはスコットランド人が中心に動いていたようだし、バークレーズ銀行(バークレー家)なんかもスコットランド人のようである。1727年にはロイヤル・バンク・オブ・スコットランドも創設されている。ジェームズ・ステュアート卿やアダム・スミススコットランド人であることも意味深である。
    
ユダヤ”も重要だが、銀行業に関わったスコットランド人にも注目する必要があるのではないか。
   
イングランド銀行の“基礎”は1609年のアムステルダム銀行にあるのかもしれない(オランダ東インド会社の設立は1602年)。世界最古の中央銀行スウェーデンのリクスバンクでありパルムストルック銀行がその前身であったが、パルムストルック銀行の設立者ヨハン・パルムストルックは「オランダ人」と言われている。パルムストルック銀行のモデルはアムステルダム銀行である。そしてこの時代のオランダ統治者はオレンジ公(オラニエ家)である。オレンジ公ウィリアムは「フェニキアカルタゴ」の末裔であるとする説をよく見かける。
    
(2005年07月29日 13時27分27秒)
    
URL:http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507290000/