社会にツケを回す外国人労働者受入れを放置するな

 

『社会にツケを回す外国人労働者受入れを放置するな』
   
筆:小野五郎(埼玉大学教授)
 
人口減少社会に突入し、不足する労働力を外国人労働者受入れで対応すべきだとの声が産業界を中心に高まっている。しかしそれは、恩恵に浴する企業にとっては都合がよいが、受入れに伴う教育や治安などの社会コストを政府に負担させる安直なものばかりだ。さらに大規模な外国人受入れは、将来の人口構成を歪め、単純労働に依存する産業の温存につながる。企業の視点ばかりでなく国益を大前提として早急に議論すべきである。

    
少子高齢化という過去に経験の無い事態を受け、不足する若年労働力などを外国人労働者受入れによって対応すべきだという意見が幅を利かせるようになった。例えば、日本経団連「外国人受け入れ問題に関する提言(04年4月)」、内閣府規制改革・民間開放推進会議の第2次答申(05年12月)では、外国人受入れに向けての制度整備、高度人材や介護・福祉分野労働者の受入れ緩和が提言され、それ意外の労働者についても受入れ拡大を提唱する声が高まっている。9月11日、これらの声を受けるかのように、フィリピンと結んだ経済連携協定に基づいて看護・介護分野における1000人の受入れが決定した。
しかし、バブル期の1980年代末に若年労働力不足が喧伝され、不法労働者が大量に流入するようになった現実に何らのビジョンも無いまま追従し、90年に開けられた法の風穴に次いで、さらなる不可逆な受入れ開放段階へと向かうことは、果たして日本の国益にかなうことだろうか。90年になし崩し的に日系人の受入れが緩和されてから、無定見に外国人の受入が広がってきた結果、外国人労働力の恩恵に浴しているのは、いわゆる3K業種の中小企業だけではなく、それらを下請けとして活用する大企業まで広範囲に及んでいる。そうした企業の多くは、外国人労働者を雇用することで、不当に低い賃金や、健康保険・年金等の公的社会保険制度への不加入という、ルール無視のコスト削減を実現し、競争力を保っているのが実態である。
その上、外国人を国内に受け入れることによって発生する追加的社会コストは(本人およびその子孫に対する教育、治安に関わるコストなど)についても、受益者ないし原因者たる企業は一部の例外を除きほとんど何も負担しない。群馬県大泉町日系人対象の日本語学級、浜松市の小中学校への修学サポーター・支援員派遣、外国人不就学児童向け教室開設といった取組みからわかるように、主に行政や善意の市民に委ねられている。しかも、これらは先進的な取組みであって、日本人自身の福祉に対する負担すら削減しようという流れの中で、こうした新たなコストを負担できない自治体は多い。その結果、外国人労働者をめぐる悲惨な事件の多発や、未就労児童によって低年齢化する外国人犯罪の激増などの影が日本社会を脅かしはじめているのだ。
少子高齢化を見据えた産業構造の構築を
そもそも1980年代末に外国人労働力論議が起きた時、旧通産省や旧建設省といった産業所管官庁は、「受入れは望ましい産業構造へ向けた企業の合理化努力を阻害する」などとして、受入れには消極的だった。ところが、法務省労働省といった取締り官庁が産業界の強い意向を受け、将来に対する確たるビジョンも無いまま受入れ制度整備に走ったのである。
しかし、日本の国益という最優先すべき視座からすれば、まずは予測される将来の人口構造や将来目指すべき産業構造をベースとして、受入れが必要かつ十分なのかどうかを判断すべきであろう。その際、単純労働力が不足するから受け入れれば良いというような一部産業界の身勝手な考え方にひきずられてはなるまい。
むしろ、日本のあるべき姿を考えれば、外国人労働力を受け入れる前に、現に国内に顕在的・潜在的に存在する老人や女性やニートといった日本人の労働力を十分に活用すべきであろう。人気がない日本人は集まらないという声をよく聞くが、その背景には、正当な対価を支払わなくて済まされている外国人の存在がある。安直な外国人労働量の利用により、あるべき賃金・社会福祉体系や労働力配置が歪められている。長引く不況に耐えかねた多くの日本企業は長期雇用を放棄し、非熟練労働者は外国人労働者を含む安価な非正規雇用に置き換えていく戦略をとり、強みとされてきた企業内教育を衰退させてしまった。企業の仁義無きコストカットによって、日本の本来の発展も阻害されていると認識すべきである。
科学的予測に基づく人口論から見れば、2030年までは人口が急減し、それ以降は安定的人口減少期となる。それまでの間、経済界等の言うように、外国人労働力によって経済成長を維持させようとすると、毎年純増分として外国人労働者を実に数十万人受けれ続けなければならず、その家族まで含めると2030年には数千万人規模の外国人が日本国内に居住するという、到底受容不可能な水準に達することになる。
一方、それまでには外国人労働者の母国も一定の経済発展を遂げていようから、日本にとって望ましい人材ほど供給が難しくなる可能性が高い。特に、最近言われている高度技術者については、かつて台湾が経済発展した時に見られたように、出稼ぎ先から一斉に帰国するというUターン現象が起こるだろう。外国人技術者に依存し、日本人技術者の育成を怠った産業などでは、必要な技術者を一気に喪失することになる。
仮に2030年までの人口急減期に対応するための経過措置として、特定分野での外国人労働力の限定的な受入れを考えるとしても、そうした将来起こりうる事態すべてについて今から相当の配慮をしておくべきである。さらに、「高度技術者」の多くがショーダンサーで、「研修生」の多くが不法就労しているというこれまでの日本の実態や、いくら期限を定めようとしても、一旦受け入れた外国人の多くが定住を選択し高齢化していったドイツの例を見れば、限定的な受入れというものがいかに難しいかがわかる。十分な配慮や検討をすることなく受入れ始めることは簡単だが、人口構成とそれに付帯する諸問題は一度ある方向に向かいはじめると、二度と元には戻れぬ不可逆なものだということを十分認識しておく必要がある。
そして、何よりもまず、少子高齢化の行き着いた先の日本にふさわしい、持続性のある産業構造を検討しておく必要がある。それは、戦後日本がやみくもに目指してきたなんでもありのワンセット型産業構造ではなく、高い一人当たり国民所得を活かした高生産性部門に特化したものでなければならない。逆から言えば、外国人労働力に期待するような一部業種については、相応のセーフティネットを用意しつつ転廃業を強力に推進すべきなのである。単純労働力受入れによって既存の労働集約的産業を守ろうとすれば、将来性のある非労働集約的産業が比較優位を失ってしまうだけだ。
受益者負担原則を貫け
このように見てくると、超長期を睨んだあるべき社会的基盤や産業構造の検討の上で、外国人労働力の受入れを精査すべきであることがわかる。そして受入れにまつわるコストについては、元より構造改革路線でも基本に置いた市場経済の大原則たる「受益者負担」というものを基本におかねばならない。
その点、外国人労働者受入れに積極的な経団連規制改革・民間開放推進会議の提言には、当然あるべき負担方法についての言及がない。というより、暗黙のうちに、それらを行政に負担させようとしているように見える。それでは、ただのフリーライダーと変わるところがない。そう言うと、必ず「外国人を雇用して稼いだ中から法人税を納めている」という反論が聞こえてくる。しかし、彼らの言う法人税というものは利潤課税であって、「受益者負担」で言うところの費用負担と全く別物である。そうではなく、「外国人雇用税」といった明確な形での費用負担がなされるべきなのだ。
また、外国人労働者の勤務場所や居住地を特定し、雇用者責任を追及できるようにするために「外国人労働者手帳(勤労パスポート)」の制定も急がれる。厚生労働省が、外国人を雇用している事業主に対し、外国人労働者の雇用状況の報告を義務付ける法改正を、審議会の意見をふまえる形で検討しているが、その程度の対策では全く実効性は期待できない。
それらによって、はじめて外国人に対する母国語による情報提供や子弟教育、公的保険制度への加入、雇用条件の改善など受入れに際しての最低限の体制整備が可能となり、彼らの人権も守られることになるのだ。さもなければ、せっかく訪日した彼らが、日本に対してよいイメージを残すことなく、母国へ帰ることになろう。
いずれにしても、将来あるべき産業構造を構築するためには、今からそのスタートを切らねばならない。それに要する膨大な費用負担に対しても、今ならまだかろうじて国民全体に耐える余力が残されている。しかしこれから、その余力も減っていく一方なのである。外国人を無定見に受け入れ、その結果としての社会的矛盾が爆発した後では、もはやすべてが遅すぎる。
そして以上のようなことがすべて実現したとしても、それだけではカバーしきれない多種多様な問題が残ることを国民は意識しなければならない。そもそも、外国人労働者は、単なる生産要素ではなく、人格を備えた血の通う存在である。日本人一人ひとりが外国人と隣人となる覚悟があるかどうかが問われている。外国人に協力も世話もしたことのない人々が無責任に受入れを主張するという風潮が罷り通っていないか。既に国内に居住している数多くの外国人の存在にもっと目を向けなければならない。他人事と考えず、身近な者が助け合うという互助の精神が国民一人ひとりに求められているのだ。

   

WEDGE 11月号