サッスーン財閥

アヘン戦争」の舞台裏
    
アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態
    

●「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。

1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。
 
   
中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーン。
インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘン密売で莫大な富を築く。
「アヘン王」と呼ばれた。
(1792〜1864年)
     
●デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。
     
(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
     
(略)
    
アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。

「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。
       
●1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で、投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。

     
上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果としてイギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。
    
●「サッスーン財閥」は、デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。(この「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)。
    
上の家系図広瀬隆氏が作成したもの(『赤い楯』より)。この家系図の登場人物は、全員がユダヤ人である。
二代目のアルバート・サッスーンの息子エドワード・サッスーンの妻は、アリーン・ロスチャイルドである。
香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、
金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。
    
(略)
    
●ちなみに、上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジーユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。

(※ 「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1以上がスファラディユダヤ人であった)。
    
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe100.html

イギリス紅茶の総元締めとして知られたデビッド・E・サッスーンは、当時の別名を「アヘン王」といった。
 彼の先祖は、中東のメソポタニアに台頭したユダヤ人富豪家で、トルコ治世の時には財務大臣を務める程の政商だった。
 1792年にサッスーン財閥の子供として生まれたデビッド・E・サッスーンは、イラクの首都バグダッドを拠点として、シルクロード交易で富を蓄えていた。
 其の関係からインドへ進出し、インドで栽培される阿片に目を付け、ボンベイに移住したのは、1832年の事だった。
 紅茶と阿片の貿易商として幅広く商売していたが、阿片戰爭によって更に其の財を増やし、インドから香港、上海へと進出していったのである。
 彼には7人の子供がいたが、長男のアルバート・アブラダは、「インドのロスチャイルド」と呼ばれ、後にはロンドンに住居を構えて、騎士(ナイト)の称号を受けるまでになった。
 阿片商の関係で父親がロンドンのロスチャイルド家に度々出入りしていた為、アルバート・アブラダもロスチャイルド家と親しく交際し、ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルドとは、英国ユダヤ人協会で共に副会長を務める仲でもあった。
  
 そして、彼の息子のエドワードが、ロスチャイルドの娘アリーンと結婚した事によって、両家は親類関係にもなっている。
 又、ロスチャイルドを通して、王室にも出入りし、アルバート・アブラダは、ウェールズ皇太子とも親しい間柄である。
 次男のエリアスは、長男がロンドンに移った後は、インドと中国貿易に力を入れ、「香港キング」と呼ばれて、中国人社会に君臨した。
 父親のデビッドが亡くなった後、香港上海銀行が設立されるが、其の大株主になったのは、5男のアーサーだった。
 其の香港上海銀行の株主にジャーディン・マセソン商会がある。この貿易商社も、阿片取引を述べるについては、香港上海銀行と共によく知っておかなければならない。
 この商社名は、創業者のウィリアム。ジャーディンとジェームズ・マセソンの名を組み合わせたものだが、今日では、高級酒コニャックの販売とホワイト・ホースの輸出業者として日本では知られている。
 冒頭で、ロイヤル・ジョッキー・クラブ、香港上海銀行、香港総督と共に、これまで香港を動かして来たと云われた4つの中の一つに入っている。
 サッスーンと同じ様に、インドのお茶と阿片を目玉商品とした阿片貿易で潤ってきた。1832年、香港の対岸澳門マカオ)に開業し、阿片戦争が終わると、直ぐに香港に進出している。
   
 幕末の日本にやって来たトーマス・グラバーが、このジャーディン・マセソン商会の代理店を長崎に開いた人である。
http://72.14.207.104/search?q=cache:j0AHubVVxn0J:www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php%3FGENRE%3Dsougou%26ID%3D10166%26P%3D200+%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%B3%E8%B2%A1%E9%96%A5&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=31

しかし実際のところ上海租界を支配したのは、
イギリスの植民地資本家と言われる人々だった。これらの人々はアヘン戦争の前後に中国に来た冒険商人だった。多くの人々はイギリス国内で受け入れられずに東洋まで流れて来た。ケズウィック家、スワイヤー家、サスーン家などで(*)低地スコットランド人が多いようだ。スコットランド(ボーダー)を旅すればこれらの地名を、多くは寒村だが、発見することができる。またこれらの植民地資本家は決して本国から切断されることがなかった。常に経営陣は故郷の村から呼び寄せられた。従って駐在しているのは1世で、年をとれば故郷やロンドンに帰った。また彼らはイギリス政界にも隠然とした勢力を保有した。現在でもスワイヤー家はイギリス中に貸しビル業としてスワイヤーハウスを営み、奨学金を支出している。また東京にも英国大使館の裏にスワイヤーハウスがある。

(*)当時、囲い込み運動が頂点に達していた。小作農は地主の飼う羊に土地を追われた。スコットランドの小作農はクロフター(自作農)運動を起こした。そしてクロフターとして土地が確保できなかった人々が出稼ぎで海外に出ていった。失敗してもクロフターの組合は帰国者を暖かく迎え入れた。また寡婦となった婦人には保険金が支払われた。これが生命保険の発祥だという。ただサスーン家はユダヤ系とも。現在香港のペニンスラホテルを経営。ケズイックはジャーディンマディソン商会、スワイヤーは香港上海銀行の個人筆頭株主
   
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1)農業革命(第2次囲い込み運動)
    
・18世紀前半〜19世紀半ば、大地主が中小農民の土地や村の共有地を吸収して所有地面積を拡大した。
・大地主は農業資本家に土地を貸し、農業資本家は農業労働者を雇って農場を経営する、資本主義的大農経営が成立する。
・土地を失った中小農民は、都市に流入して工場労働者となった。

1709 イギリス議会が囲い込み法を制定(第2次囲い込み運動は議会が合法化した)
1730 ノーフォーク農法の開始
・大麦、クローヴァー、小麦、かぶらの順に4年周期で行う4輪作法。これにより穀物生産が増加した。
    
URL:http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/25.html

宗家の3姉妹は、
「一人(靄齢)は金を愛し、一人(美齢)は権力を愛し、一人(慶齢)は国を愛した」
といわれる。 
靄齢は晰江(サッスーン)財閥の巨頭、孔祥煕と結婚し、慶齢は革命家の孫文と、三女の美齢は国民党の蒋介石と結婚した。
       
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孔祥煕
    
こうしょうき/コンシアンシー
1880-1967
中国四大家族の一人。H.H.Kungと通称。山西省出身。米国留学の後,孫文のもとで活躍。閨閥(けいばつ)を通じ1930年以降国民政府の財政・経済の要職を歴任,金融界を支配し巨富を蓄積する。1948年米国へ脱出。
   
http://72.14.207.104/search?q=cache:g2OqwwTr8uYJ:www.if-n.ne.jp/member2/netdh/telency/CGI-BIN/item.pl%3FMLK%3Ddmpeven%26IKP%3DN1673100+%E5%AD%94%E7%A5%A5%E7%85%95&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=86

しだいかぞく【四大家族
   
○[歴]中華民国時代の四大財閥(蒋・宋・孔・陳)。
蒋介石(ショウ・カイセキ)・宋子文(ソウ・シブン)・孔祥煕(コウ・ショウキ)と、陳果夫陳立夫(リップ)の家族の総称。
  
地方の小資産家や買弁(バイベン)であったが、同郷・同族の結束による大資本を持つようになった。
民国成立後、特に蒋の政権掌握後、政府・国民党や外国の帝国主義勢力と結び官僚資本として中国経済を支配。日中戦争から戦後にかけて莫大な資本を蓄積したが、人民共和国成立により財産を没収され、家族の多くは台湾・アメリカに亡命した。
     
http://72.14.207.104/search?q=cache:8wF5YYKL3HcJ:www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/shita.htm+%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=25&lr=lang_ja

HSBC in Japanの歴史
   
 日本は和親修好通商条約の締結により、1850年代に正式に西洋諸国に向けて開国しました。HSBCは日本で営業活動を開始した最初の外資系銀行の1つで、1866年に横浜に支店を開設しました。当初、日本における外資系銀行は、拡大しつつあった日本の対外貿易に資金面で協力しており、対外貿易額は1860年代から20世紀初期までは10年ごとに倍増しました。
    
 HSBCの支店は、横浜に続き、神戸(1869年)と大阪(1872年)、長崎(1896年)、そして東京(1924年)にも開設されました。
 貿易金融に加えて、HSBCは大阪造幣局で大規模な金銀通貨造幣にも協力し、日本企業に資金融資を行いました。中でも1880年には、「大切な顧客」であった三菱財閥創始者に融資を行いました。また、三菱は、1912年からHSBCが東京に支店を開設する1924年までの間、東京での同行の代理人としての役割も担っていました。

 HSBCは近代銀行業のモデルとなり、日本最大の銀行であった横浜正金銀行HSBCを模範としてその組織作りを行ったと言われています。また、HSBCは日本の通貨制度について、日本政府に助言と援助を行いました。19世紀末頃の日本の法貨はメキシコ銀ドルでした。しかし当時、日本は銀円を通貨として導入しようとしていました。HSBCはこれを奨励し、横浜支店の支店長であったA.M.タウンゼントは、HSBCが銀円とメキシコドルが額面で等価であることを認めると発表しました。そして香港のチーフ・マネージャー、トーマス・ジャクソンもそれを支持し、円という新しい通貨に対する信用をもたらす上で貢献しました。
    
http://www.hsbc.co.jp/jp/japanese/aboutus/history_j.htm

 「いや、とてもその段階まではいかない。イギリスの『パーズ銀行』『香港上海銀行』が募債を承知したがその条件は、
  
①発行債券=ポンド公債
②抵当=関税収入
③利子=年6%
④期限=五ヵ年
⑤発行価額=額面100ポンドにつき92ポンド
⑥発行額=最高300万ポンド
(当時のポンドは大体1ポンド=10円)
   
 対して日本政府が高橋に与えた条件が、利子5%、10年据え置き、発行額500万ポンドだ」
    
 「かなり条件に差がありますね」
   
 「おまけに関税を抵当にするのならば、当時同様の場合イギリスが清国に行なっていたように『イギリス人総税司を日本に派遣して税関を管理させるべきだ』と両銀行は主張してきた」 
   
(略)
    
 「持ち前の粘り強さを発揮した高橋は条件闘争の末、発行額500万ポンド、期限7年、発行価額93ポンドで4月20日頃合意にこぎつけた」
    
 「でもまだ500万ポンド足りないわよね」
    
 「そこで登場したのがユダヤ人金融業者、ヤコブ・シフだ」
   
http://72.14.207.104/search?q=cache:lyonznXtVWcJ:www1.odn.ne.jp/~aaa23320/nitiro/nitiro_ect2.html+%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E9%A6%99%E6%B8%AF%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%80%80%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%80%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=17

1937年、ドイツ軍事顧問団にそそのかされた蒋介石は突然上海租界を爆撃し、海軍陸戦隊を奇襲した。上海は再度市街戦の巷とかした。これは徹底的なものだった。それでもイギリス人は残った。共同租界参事会は日本人とイギリス人の論争の場となったが、1940年4月まで機能し続けた。1940年5月、ヒトラーがBEFをダンケルクで追い落とすと、イギリス人は姿を消した。もはや本国が消滅するか否かの問題だった。
   
これが上海の本当の終わりだった。日本の軍部は最後まで上海の獲得が最大の経済的利権とみなしたようだ。しかしイギリス人が去ると何も残っていなかった。上海はヨーロッパ人が消費する茶と絹がそもそもの繁栄の土台で、それに加えての金融だった。香港上海銀行もチャータード銀行も最後まで直接中国人の預金を取り扱うことをしなかった。収益の大半は為替の投機だった。そして香港上海銀行本店と並ぶバンドの巨大ビルは新聞社、クラブ、そしてホテルだった。
   
http://72.14.207.104/search?q=cache:H06dBuG6LLYJ:ww1.m78.com/topix-2/shanghai.html+%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E9%A6%99%E6%B8%AF%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%80%80%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%80%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5