天皇無きナショナリズム

戦後のサヨクのわけわからないところは、日本の支配体制を攻撃するときに何故か「天皇制」を持ち出すところだった。単純な問題として天皇の存在が害悪を生み出す仕組みがわからない。歴史的には絶対王制に擬するか、特殊日本的集団主義に擬するかして理屈付けしてきたようだが、前者では西欧絶対王制との懸隔が大きすぎるし、後者では「天皇」が要である必然性がない。確認できるのは日本の支配体制と天皇崇拝が並行していたという事実だけだ。結局天皇否定の根拠となっているのは「聖なるものを措定すると卑なるものも存在せざるを得ず、それがすなわち差別なのだ!」という茫漠としたルサンチマン感情なのだろうか。

小泉
(1)中曽根憲法案の否定
(2)伝統的天皇制の否定
(3)東京裁判史観の肯定

新自由主義革命であり保守主義ではない。天皇抜きのナショナリズムという新たな段階に入ったのだ。

藤原氏は、現在の日本を「幕末に似た攘夷感情が蔓延する」と述べている。私に言わせて貰えば、そうではなく、今の日
本は19世紀後半の日清戦争から日露戦争のころのナショナリズムの高まりの方にに似ている。攘夷感情といっても、それは明治維新のころの西欧諸国に対する攘夷感情と尊皇感情の高まりではない。そもそも今の日本で、尊皇と言われる皇室を敬慕するひとたちと反中国のナショナリズムを先導するする若い世代にはかい離があると思う。

気付かないかも知れないが日本の新聞で、最近、皇室に関するニュースの扱いが大変小さくなった。最近でこそ、女性天皇を認めるか認めないかという問題で騒がしくなっているが、紀宮様の結婚の話題もかつての雅子妃誕生のときの盛り上がりに比べると雲泥の差である。恐らく今のナショナリズムは皇室を崇敬するというものとは「別のもの」である。天皇陛下抜きのナショナリズムが登場したのである。内向きのナショナリズムではなく、外に向けたナショナリズムショービニズムというべきである。