無条件降伏は戦争をどう変えたか

         

無条件降伏は戦争をどう変えたか

無条件降伏は戦争をどう変えたか

        
●無条件降伏は異常な戦争終結方法
          
サヨクの「日本の戦争責任論」ではしばしば日本政府がさっさと降伏しなかったことが糾弾される。はやく降伏していれば犠牲は少なかったはずだというわけだ。
          
・沖縄が犠牲に成らずに済んだとか。
・原爆を落とされないで済んだとか。
・(朝鮮韓国在日コリアンがよく言うのは)朝鮮が分断されなかったはずだとか。
            

 参考)
 1944.07 サイパン島陥落→本土空襲開始
 1944.10 レイテ湾海戦=連合艦隊壊滅 ←この辺でやめとけば・・・?
 1945.03 東京大空襲
 1945.05 ドイツ降伏 ←もはやこれまで・・・
 1945.06 沖縄壊滅
 1945.07 ポツダム宣言
 1945.08 原爆

             
しかし「無条件降伏」というのは極めて異常な戦争終結方法で、日本政府(あるいはドイツ政府)が躊躇するのも当然だ、ということに本書によって気がつかされた。
また、右派が言う「日本は無条件降伏していない」という議論の根拠も確認できた。
サヨクはこういうことわかって言っているのだろうか?
戦争に負けたら全部おじゃんとか、悪いことをした方が全面的に非とされるとか、その程度の理解だったのではないだろうか?(昔の自分がそうだったので)
サヨクは戦争観においてもあまりにもナイーブなのかもしれない。
             

第一章 発端、それはカサブランカ会議

・極めて異常な降伏条件は、連合国内ですら歓迎されなかった。

1939.09 第二次世界大戦はじまる
1942.06 ミッドウエイ海戦
1942.11 英米北アフリカ上陸作戦成功
1942.12 ソ連スターリングラードで反攻
1943.01 英米首脳会談=カサブランカ会談「独伊日の無条件降伏」
        ・ローズベルトの発案
         →チャーチルの反発
         →スターリンの反発

[先例1]1962:南北戦争時の北軍グラント将軍(砦に対して)
[先例2]1902:ボーア戦争(国家に対して)

第二章 苦肉の目眩まし作戦

・無条件降伏要求は偶然の成り行きから決定された。
 ←ダルラン取引の反動
 ←ソ連の抜け駆け防止

第三章 スターリングラードの悲劇

プロパガンダの結果としての無条件降伏要求
 ←「人種差別主義者」ローズベルト
 ←原爆保有による自信
・恐れていたとおりの結果
 →ドイツの奮起
 →イタリアの奮起

第四章 ヒトラー暗殺計画とドイツ抵抗運動
第五章 対独強硬策・モーゲンソー計画の波紋

・無条件降伏要求の裏に反独主義あり→その裏にソ連あり。
 モーゲンソーの部下のホワイトはソ連のスパイでハルノート仕掛け人。

1944.09 モーゲンソー計画公表される
 →米国世論の反発
 →モーゲンソー計画の取り消し
 →ドイツの奮起
1944.10 大統領選挙

第六章 激戦の背後に潜む無条件降伏要求

・ダレスは無条件降伏要求のデメリットを心配

・ドイツ抵抗運動の見殺し
・戦闘の激化
 →アーヘンの戦い
 →ヒュルトゲンの森
 →アルデンヌの戦い
 →硫黄島の戦い
 →特攻攻撃
 →暗殺攻撃

第七章 アイゼンハワーを狙った男

第八章 もし無条件降伏要求がなかったら

・ダレスは無条件降伏要求を骨抜きした

1944.06 天皇終戦を提起、ソ連に仲介を期待
 ←ドイツの降伏(同盟条約の失効)
 ←英米の無条件降伏要求への反発
1945.04 ローズベルト死亡 トルーマン後任
 →モーゲンソー解任、スティムソンの修正
1945.07 ポツダム宣言
 →名目上の無条件降伏、実質上の条件付降伏要求
  「無条件降伏が軍隊に対してのみ適用される」

参考)
・米陸軍の欧州戦線での死傷者数

1943.1H  20671/ 20671
     2H  39546/ 60217
1944.1H 117903/178120
     2H 360486/538606
1945.1H 222360/760966

あとがき 

アメリカ的な戦争観=政治と切り離された軍事
・無条件降伏⇔中断された戦争
米西戦争の教訓(1898)米兵の死者
 →対スペイン正規軍   397人
 →対フィリピンゲリラ 4234人

●日本は無条件降伏したのか?

(1)WW〓以前(ボーア戦争を除く)の戦争終結では、
   「降伏」は条件を定めて軍隊が行い、政府は終戦にともなう条約を履行する。
(2)各国の降伏
   ・伊 伊軍「無条件降伏」政府「休戦条約締結」→政権交代&連合国側に寝返る
   ・独 独軍「無条件降伏」政府壊滅=降伏条件無し
   ・日 日軍「無条件降伏」政府「ポツダム宣言受諾」→政権交代&王制維持
(3)日本軍が無条件降伏(=なんでも言いなり)したのは間違いない。
   しかし日本政府が「ポツダム宣言を受諾」したことは「無条件降伏」に当たるのか?

カサブランカ会談 
時:1943年01月14日〓01月24日 11日間
於:フランス領モロッコカサブランカ
人:ルーズヴェルトチャーチル
  ルーズヴェルト「無条件降伏」方針を宣言。

■カイロ会談
時:1943年11月22日〓11月26日 05日間
於:エジプトの首都カイロ
人:ルーズベルトチャーチル蒋介石
  12月1日共同宣言(カイロ宣言)を発表

テヘラン会談 
時:1943年11月28日〓12月01日 04日間
於:イランの首都テヘラン
人:ルーズヴェルトチャーチルスターリン
  スターリン、対日参戦表明。
  ルーズヴェルト、(米英支蘇)「4人の警察官」構想。

ポツダム会談
時:1945年07月17日〓08月02日 16日間
於:ベルリン郊外のポツダム
人:ルーズヴェルトチャーチルスターリン
  独日の戦後処理案
  7月26日米英支ポツダム宣言(蘇は参戦後に追加)

ポツダム宣言
『1945年07月26日ポツダムにおける米英支三国宣言』

三国首脳は日本国に対し戦争終結のチャンスを与えます。
もし日本国が抵抗するなら戦争を止めませんが、そうなると日本軍は徹底的に壊滅されるし日本国本土も完全に破壊されます。
日本国はこのまま軍国主義に引きずられるのか考え直すのかを決断すべき時です。
条件は以下の通りです。これが全部です。交渉はしません。返事の遅れも許しません。

1.日本国民に「過ちを犯させた者」を処罰すること。
2.「新秩序」が確実になるまでは日本国の「諸地域」を占領させること。
3.カイロ宣言*の条項を履行すること。つまり日本国の主権は本土+αに限定される。
4.日本軍を武装解除すること。ただし社会復帰するチャンスは与えます。
5.私たちは日本人を奴隷にしたり滅亡させたりしませんが、戦争犯罪人を処罰すること。
6.日本国政府は民主主義を発展させること。
7.日本は再軍備につながらない限り、経済を維持し賠償を払うための産業は維持してもよいです。
  その目的のためには原料輸入は許されますし、将来は世界貿易に復帰してよいです。

以上の目的が達成されて民主的に平和的な政府が選ばれたら占領軍は引き上げます。
私たちは日本国政府が直ちに日本軍に無条件降伏を宣言させそれが実行される保証を示すことを要求します。
そうしない場合は完全に破滅させます。

■カイロ声明
1943年11月27日

1.1914年のWW〓開戦以後手に入れた太平洋諸島を全部取り上げる。
2.満州、台湾及び澎湖島のような日本国が中国人から奪った地域を全部中華民国に返還させる。
3.ほかにも日本国が貪欲と暴力で手に入れた一切の地域から駆逐する。
4.(朝鮮人の奴隸状態を気に掛けている三大国は)そのうち朝鮮を解放して独立させる。

このために三同盟国は日本と戦っている連合国諸国と協調して、日本国の無条件降伏に必要な作戦を続行する。

改めて読んでみて非常に曖昧だと思った。
海外領土を放棄させて、戦争指導者と戦争犯罪人を処罰し、民主的な政府を樹立させ、軍事産業を解体する。それまでは占領する・・・
というのはまぁ敗戦なんだからしょうがないか、と一瞬思えなくもない。でもよく考えてみれば問題がたくさん。

(1)民意に沿っていても占領軍が気にくわない政権は駄目。
(2)戦争指導者を処罰するといったって「誤ちを犯させた」指導者ってのは何だ?
   よい指導者とわるい指導者がいるのか?天皇は含まれるのか?
(3)カイロコミュニケの「貪欲と暴力で手に入れた地域」ってどこだ?
(4)「カイロ宣言の諸条項は履行される」と「日本国の無条件降伏に・・・」の関係は?
   最後の一文は諸条項以外の連合国間の確認内容に見える。
   すると「日本国の無条件降伏」はポツダム宣言に含まれない。
   カイロ声明での「日本国の無条件降伏」はポツダム宣言では「日本軍の無条件降伏」に後退している。

日本政府は(1)(3)はやむを得ないと放置した。
(4)は(2)との関わりで、つまり「国体護持」という条件は認められているのか、という形で問題になった。

■バーンズ回答(8月9日問い合わせ→11日回答)
Q:国体は護持されるのか?
A:天皇日本国政府統治権も占領軍司令官にSubject toする。

国体護持(=天皇の地位の保証=実質的な主権の継続)が確認されたら、それは条件付降伏である。だが連合国は明確な回答をしていない。しかし一方で「将来の政治形態は国民が決めろ」と同時に言っていた。連合国は天皇制が国民に支持されていることは理解している。ということは「国民の意志を経由して国体護持」ということになる。

(1)米国は「日本国の無条件降伏」は実質的に取り下げていた。
(2)しかし対外的に取り下げたとは言えないので曖昧にした。
(3)日本側はそれを嗅ぎ取り主観的には「条件付降伏」をした。
(4)形式的には条件は確認されていない。
(5)またそれ以外の点では実質的に無条件降伏に近い状態になった。

名を捨て実をとった、ということでしょう。
したがって「無条件降伏をしたのか?」については「見方による」と言うのが結論かなあ。すっきりしないけど・・・
    
追記)
    
連合国は日本に降伏の意志があることをドイツ降伏以前に認識していた。
日本政府の希望はそれまでの戦争の常識に沿った条件付降伏である。ときは沖縄戦真っ最中。まだ日本軍が悲劇的壊滅に至る前だ。政府はこの段階で条件交渉に有利に作用する「戦果」を期待していた。ゲリラ戦を主張する沖縄守備軍に5月4〓5日の総攻撃を強制したのは、そのためであろう。しかし天皇はすでに条件交渉に固執する考えを変えつつあった。

■降伏条件
(1)国体護持
(2)全面武装解除  拒否→容認
(3)戦争責任者処刑 拒否→容認

海外領土の放棄、大陸からの撤兵はすでに受け入れている。

05月08日 ドイツ降伏
05月14日 最高戦争指導会議、対ソ交渉方針を決定=終戦工作を開始
06月03日 広田・マリク会談不調に終わる
06月22日 天皇、直接終戦工作に乗り出す
06月23日 沖縄守備軍壊滅
07月10日 最高戦争指導会議、近衛終戦特使ソ連派遣を決定 
07月17日 ポツダム会議開催
07月18日 米国、原爆実験成功・ソ連、近衛特使を拒否
07月26日 ポツダム宣言
08月08日 ソ連、対日開戦を宣言

なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近(5月5日の2,3日前)御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えにさえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると思う、との木戸の話である。
高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』

TITLE:半月城通信 No.52
URL:http://www.han.org/a/half-moon/hm052.html

いっぽう日本は、六月末には宮中勢力によって終戦工作が本格化していた。六月二二日には天皇陛下自らが終戦への努力を求め、これを受けて鈴木内閣は終戦の仲介をソ連に依頼しようとしていた。東郷(茂徳)外相、佐藤(尚武)駐ソ大使らが必死にソ連を口説くが敵は動く気配を見せない。七月十二日、天皇は国體の存続だけを条件に無条件降伏を呑むと決断、近衛文麿を特使としてモスクワに派遣させるが、スターリンモロトフ外相もポツダムに向けて出発した後だった。


TITLE:無題ドキュメント
URL:http://www.gyouseinews.com/international/oct2002/003.html

半月城氏はなんとか天皇を「降伏を拒絶して被害を拡大した大悪人」に仕立てたいみたいだが、素直に読めば「無条件降伏」という非常識な終戦手段をもっとも早く受け入れていたようにみえる。政府のもたつきに業を煮やして近衛特使をソ連へ派遣させたのも天皇だ。すでに国体護持のみを条件とした全面降伏は6月末段階で決定された。そして交渉は07月04日から始まっていたのだ。

ヤコブソン工作
    
メモなどを総合すると、米側はダレス氏とOSSスタッフが、日本側は横浜正金銀行の北村孝治郎BIS理事と吉村侃BIS為替部長が、一九四五年七月四日から八月初旬まで一カ月以上、ヤコブソン氏と接触を続けた。                    
   
接触では北村、吉村両氏は天皇制と明治憲法の維持の確約を求めたが、ダレス氏は七月十五日のヤコブソン氏との第一回会談で「危険を冒すことが最も安全な方策だ」と述べ、天皇制維持を事実上容認するメッセージを送った。   
    
TITLE:aku197 原爆呼び寄せ国体護持1945年秘話に体面が重要かと痛烈指摘のスイス仲介日記
URL:http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku197.html

      
スウェーデン人のヤコブソンが伝書鳩役となりアレン・ダレスとの交渉を進めた。ダレスはこの段階で日本側の条件が国体護持のみであることを知り、07月15日にはそれを暗に受諾している。しかし、明確には言えない。ダレスは連合国に対しては「無条件降伏」であることにしなけらばならなかったのだ。ヤコブソンの怒り、「国家を救うよりも体面を保つことが重要なのか」は含意を読みとれという焦りだったのかもしれない。ダレスは日本側の条件を07月23日にポツダムの3巨頭に伝えている。しかし07月26日、3巨頭はあくまで無条件降伏を主張した。国体護持を一言いえば終戦できるのにである。
   
そして結局国体護持を「公式にほのめかす」のはすべてが終わった後、広島と長崎に原爆が投下されたあとの08月11日だった。