「地獄をくぐり抜けてきた」戦う社長、ウッドフォード氏の帰還
2011年11月29日(火)15:00
http://news.goo.ne.jp/article/newsengw/world/newsengw-20111129-01.html?pageIndex=1
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ウッドフォード氏が解任されてから出国するまでの短い間に唯一取材したのが、ご存じ英紙『フィナンシャル・タイムズ』のジョナサン・ソーブル記者です。ウッドフォード氏が今回、日本外国特派員協会の記者会見で語ったところによると、取締役会で解任されて間もなく、会社支給のパソコンと携帯電話2台を取り上げられそうになったので1台だけ死守し、自宅近所の代々木公園からソーブル記者に電話をしたのだとか。「彼が電話をとらない可能性もあったけど、とってくれてラッキーだった」と。

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ウッドフォード氏が日本外国特派員協会で行った記者会見の日本語概要はサンケイビズにあります。これだけ長く詳しく日本語で載せてくれるのは、大変ありがたい。ただしこれは要約なのか、省略されている部分もあるので、その中で私が会見を見ていて「へえ」と思った箇所にいくつか触れます(ちなみにこの記事、ウッドフォード氏の態度を「興奮気味」と書いていますが、そうでしょうか? これまで同氏の色々なインタビューを見ましたが、ことがことだけに、「興奮」しているというよりは「熱く語っている」という感じではないかと)。

たとえばオリンパスによる損失隠しを最初にすっぱ抜いた7月の『ファクタ』誌記事について誰も社長の自分に報告しようとしないので、ウッドフォード氏が幹部会議を招集した時のこと。昼食の時間帯だったので菊川剛会長(当時)たちの席には寿司がおいてあったが、自分の席には「なぜかツナサンド。しかもかなりしょぼいのが置かれていた。僕は寿司が好きなのに(会場笑い)」というのです。

あるいはウッドフォード氏いわく、自分は日本で数少ない外国人社長で、しかもこの会社の叩き上げなので、就任当時にはマスコミにヒューマンストーリーとして注目された。だからこの自分が会社の企業統治に異議を唱えて派手に辞任すれば世間が騒ぐぞ、それよりは一連の買収について自分にきちんと説明した方がいいんじゃないか――と、菊川会長たち相手に駆け引きしていたこととか。

それから解任された取締役会でのこと。開始予定時間に遅れる菊川会長を待つ間、前日には被災地を訪問していたウッドフォード氏に対して、隣席の森久志副社長(当時)が「被災地はどうだった。心を動かされたか」と話を振ってきたと。これから自分をクビにしようというその直前に、よりによって被災地の話題を持ち出すのかと「すさまじい不快感(huge sense of revulsion)」に襲われたため、「ミスター」も「さん」つけず、「森、僕を愚弄するな(Mori, don't play games with me)。どうするつもりなのか分かってるんだから、さっさとやれ」と言い放った――とか。

解任決議の後(役員たちはみんな教室の生徒みたいに一斉に勢いよく賛成の手を挙げたと)、会社支給の携帯を返せと言われたので、日本で使っていたギャラクシーは渡したところ、ヨーロッパで使っているiPhoneも渡せと言われた。妻と連絡がつかなくなるのは困るので、相手にぐっと顔を近づけて「そんなことをする権利があるのか? あんたは警察か」と威圧したと。そのやりとりについてウッドフォード氏は、「僕はリバプール出身なので。それがそういう時のリバプール流で」と笑った――とか。

そしてウッドフォード氏は、上述したように『フィナンシャル・タイムズ』の記者に特ダネを渡した経緯についても語り、羽田から香港経由でヒースローに到着したら同紙一面に大きく自分の記事が載っていたと話していました。一面記事だけでなく解説記事も複数。

「続いてブルームバーグやロイターも追いかけて報じ、日本のマスコミも数……1週間後に記事にした」と元社長は結びました。「and then the Japanese press, a few... a week later」とニヤッとしながら。そしてそれを受けて会場の外国人記者たちが「はっはっは」と笑っていました。なんて残念なことでしょう。

正確に言えば、特ダネをとっていた『フィナンシャル・タイムズ』を例外にして、海外メディアも日本メディアも解任直後には会社の言い分だけを書いていたので。ウッドフォード氏本人を取材できずにいたのは、海外メディアも日本メディアと同じだったようです(たとえばこちらの米東部時間10月14日付米紙『ニューヨーク・タイムズ』記事は「ウッドフォード氏は取材できなかった」と認め、見出しには会社側の言い分そのままに「文化の衝突」ととっていました)。

対してたとえば読売新聞は15日付の時点で「解職に至った経緯は必ずしも明確でない」と含みを持たせていたのですが、日本の主要メディアは「英紙報道によると」という形で直ちに追いかけることをせず、さらにウッドフォード氏側の言い分を追いかけるのもなぜか遅れました。『ニューヨーク・タイムズ』がウッドフォード氏に電話取材をしてその言い分を書いたのは週明けの日本時間18日付でしたが、朝日新聞がウッドフォード氏に取材して「『不適切と指摘後に解任』 オリンパス前社長が主張」と記事を載せたのは19日付。掲載面は第2社会面でした。つまり決して大きな扱いとはいえません。日本の世界的企業のとんでもない内紛劇なのに。解任された社長が経営陣による不正の可能性を指摘しているのに。外野が後からああだこうだ言うのは勝手気ままなものですが、その気になれば日本各社はヒースロー空港の到着ロビーでずっと張り込んでいてもよかったのにと言いたくなります。勝手なことを言うなと怒られるでしょうが。

『フィナンシャル・タイムズ』の特ダネに日本のマスコミがさほど食いつかなかったことに、ウッドフォード氏も不安を覚えたそうです。記者会見でいわく、「ジョナサン(ソーブル記者)の記事が出ても、(日本では)特に何がどうなるわけでもなかったので、日本に報道の自由はあるのだろうかと確かに心配した。(一面ではなく)4ページ目に載っている日本メディアの記事は、オリンパスの広報担当が書いたのかと思うような内容だったし。それでも『ファクタ』は確かに書いたのだと思いだし、特に発禁処分になることもなく、阿部(重夫編集長)がいやな奴らに殺されることもなかった」。

このコラムで繰り返し書いていますが、欧米のメディアが全て素晴らしいわけでも、日本のメディアが全て及び腰なわけでもありません。けれども前にも書いたように、このオリンパス問題は「日本の主要マスコミは弱腰だ」という印象を内外に与えてしまった。それは残念ながら確かです。

ではなぜ捜査当局ではなく外国メディアに話を持ち込んだのかと質問されたウッドフォード氏は、「そうしていたらこの問題は同じくらい徹底的に、適切な扱いを(当局から)受けていたと思いますか?」と会場に逆質問。満員の会見場で手を挙げたのは5人くらいだったそうです。

「日本には、スキャンダルがあっても波風を立てないというルールがある。当局に直接訴えていたら、取締役会は何も変わらずそのままだったはずだ」。そう言うウッドフォード氏が次の言葉を口にした時、駆け引き上手な辣腕ビジネスマンの顔になったと私は思いました。

要するにこういう「ジョン・グリシャム小説みたいな」企業内紛の場合、マスコミをいかに活用するかが何より大事だと。代々木公園からソーブル記者に連絡したウッドフォード氏は、「すごい話だから、特ダネとして提供するからと彼をたきつけた」そうです。

そういうひとりの敏腕ビジネスマンがいざここ一番の大勝負に臨もうという時に、「あいつに電話しよう」と思ってもらえる関係性を取材対象と作れるかどうか。それは企業担当の新聞記者にとって、勝負の分かれ目と言えます(取材対象と記者の関係はどの分野でもそうです)。そういう意味で記者としての勝負に「勝った」ソーブル記者は、特派員協会のひな壇上で、ウッドフォード氏の隣に座っていました。

最後に余談ですが、ウッドフォード氏の「帰還」をハリウッド的に見るならば、その映画の「最高のクライマックス場面」はもちろん、ウッドフォード氏が自分を追い出した取締役会に乗り込んでいく場面だろうと、「アーカス・インベストメント」のピーター・タスカ氏が『フィナンシャル・タイムズ』に書いていました。その一方でこれが時代劇ならば、ウッドフォード氏は英雄役ではなく、恩義ある主君を裏切る不忠者として描かれるだろうと。

オリンパス物語はハリウッドというよりはサムライ」という見出しのこの記事が示す対比は「会社」に対する伝統的なとらえ方の違いをくっきり表現していて、面白かったです。ただし例によってこれは「日本特殊論」を強調しすぎているきらいがあって、そこが気になりました(それに最近の時代劇はお家騒動ものといえども、愚かな主君を容認するばかりではありませんし)。

最近の時代劇の話をしだすと長くなるのでオリンパスに話を戻しますが、実際の取締役会での対決場面は、謝罪もなければ握手もなかったけれども「緊張しつつも礼儀正しい」ものだったそうです。映画やドラマとは異なり現実とは実際には、得てして地味なものです。そしてタスカ氏も、日本企業が損失を隠すケースは減っているし、日本の企業統治の水準は完璧ではないが改善しているときちんと書いています。

おそらく封建制度下の江戸時代だって、時代劇的なドラマチックな世界がそうそう日常的に展開していたわけではないでしょう。現実とフィクションを混同して「江戸時代は良かった」とか言われても、困ってしまいます。ただ何度も書きますが、「日本はいまだに主君への忠義が何より大事なサムライ社会だ」というとっつきやすい印象、イメージがこうして喧伝されてしまうことが問題なのです。「サムライジャパン」という言葉のイメージは、日本人自身も好きですし。実際に日本人のほとんどは武士階級の出身ではないはずなのに。