どくとるマンボウ死す


春寂寥(はるせきりょう)  旧制松本高等学校寮歌 (思誠寮)
作詞:吉田 実、作曲:浜 徳太郎作曲[大正9年1920年)発表]

1 春寂寥(はるせきりょう)の洛陽に 昔を偲ぶ唐人(からびと)の
  傷(いた)める心今日は我 小さき胸に懐(いだ)きつつ
  木(こ)の花陰にさすらへば あはれ悲し逝く春の
  一片(ひとひら)毎に落(ち)る涙

2 岸辺の緑夏木立 榎葉蔭のまどろみに
  夕暮さそふ蜩(ひぐらし)の 果敢(はか)なき運命(さだめ)呪ひては
  命の流れ影あせて あはれ淋し水の面(も)に
  黄昏(たそがれ)そむる雲の色

3 秋揺落(ようらく)の風立ちて 今宵は結ぶ露の夢
  さめては清(きよ)し窓の月 光をこうる虫の声
  一息(ひといき)毎に巡(めぐ)り行く あはれ寒し村時雨
  落葉(おちば)の心人知るや

4 嵐は山に落ち果てぬ 静けき夜半の雪崩れ
  榾(ほだ)の火赫(あか)くさゆらげば 身を打ち寄する白壁に
  冬を昨日の春の色 あはれ床(ゆか)し友どちが
※)あかぬまどひのもの語(がた)り

※)繰り返し

旧制松本高等学校は、1919年(大正8年)4月長野県松本市に設立された官立の旧制高等学校である。9番目の官立旧制高等学校として設立されました。「ナンバースクール­」の8高校に続き設立されたいわゆる「地名スクール(=ネームスクールともいう」の最初のものである。文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置され、学生寮として思­誠寮が建てられました。戦後、新制信州大学の発足にあたりその母体の1つとなり、文理学部に改組されました。
数多の人材を輩出していますが、OBである作家北杜夫の小説「どくとるマンボウ青春記」の舞台として、また、今年平成23年NHKテレビの朝ドラ「おひさま」のロケ地と­しても知られています。歌唱はボニー・ジャックスです。3番無し。
旧制三高の有名な寮歌『琵琶湖周航の歌』の作曲者小口太郎は諏訪中学の後輩だった浜徳太郎の妹・すずと婚約していましたが26歳で夭折されました。この有名な二つの寮歌の­作曲者同士の不思議な縁(えにし)を感じます。
   

   

作家の佐藤愛子さん 「話し合える相手を失った」
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/26/kiji/K20111026001896540.html?feature=related
 
 北杜夫さんとは、1950年ごろ、同人誌「文芸首都」の集まりで初めて会いました。
 そのとき私は、北さんが斎藤茂吉の息子だと知らなかった。私の父が佐藤紅緑だと知っていた北さんは「有名なお父さんをもたれて、どんな気分ですか」と聞いてきました。「佐藤紅緑なんて、今は知っている人はいません」と答えましたが、後で茂吉の息子と知り「このヤロー」と思った。人を食った男だな、と。
 北さんは背中に継ぎが当たったよれよれのシャツ姿でしたが、白皙の美男子で、妙ないでたちが、かえって魅力を引き立てていました。ユーモアの才で有名になりましたが、彼の本質は詩人だと思う。まじめで穏やかな常識家の面がある一方で、突然表れるおかしさ、“奇人”ぶりが魅力でした。
 仲間では“面白中毒”の遠藤周作さんが、面白いことを考えて言うのに対し、北さんは天然の面白さがあった。今まで仲間が亡くなると残った者が連絡し合い、共に悲しんだものですが、今、北さんが亡くなっても伝える相手がいない。一人で耐えなければならないのが、たまりません。
 北さんはよく「僕はもう駄目だ」と言う人でしたが、そう言いながら一番長生きすると思っていた。私はとうとう最後の一人になってしまった。今は広野に一人たたずんでいるという気持ちです。(談)

なだいなださん 北さんを悼む「生きた天才だった」
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/26/kiji/K20111026001895940.html?feature=related
 作家なだいなださんの話 病院の精神科医局で一緒で、同人誌「文芸首都」にも共に属していた。私が中学の後輩と知ると「おまえを弟子1号にしてやる」と言われたことを懐かしく思い出す。彼がそう病になったときには、私が最初に診た。
 ユーモアを作品に取り入れ、文学的に主要な要素に高めた。北杜夫という生きた天才を長い間、間近に見てこられたのは、本当に幸せだった。