エネルギーは安全保障(軍事)の一部だという常識をもたないと世界情勢を理解できない。
商売の話は次に来る。

原発は何処から、何処へ――
原発立地をめぐる利権と電源三法 田中角栄の中央への反骨から自らの中央化まで
山岡淳一郎
2011年10月5日(水)
(略)
 しかし、議員立法のなかでも「電源開発促進法」は特別だった。火力、水力の発電施設を整備して「産業の血液」=電力の供給を増やす、この法案は、GHQに真っ向から反対された。潜在戦力の整備につながる、と反感を買ったのだ。当時、電力供給は、極めて不安定だった。停電が頻発していたが、GHQ電源開発を認めようとはしなかった。

 田中は、「公職追放するぞ」と脅かされながら、占領軍に抵抗する。吉田のバックアップで、電力開発は重工業の振興、経済成長が目的であり、再軍備とは無関係と言いきって、法案を提出した。時勢が田中に味方する。サンフランシスコ講和条約の発効で占領が終わり、52年7月、電源開発促進法は成立した。政府出資の特殊法人電源開発株式会社(Jパワー)」が設立され、大規模なダム建設にいよいよ拍車がかかる。

 それから2カ月後の66年8月、砂丘の一部の52ヘクタールの土地の所有権が北越製紙から田中の腹心に移転される。所有権を得たのは刈羽村村長だった。村長は田中の後援会「越山会」の刈羽郡会長でもあった。
(略)
 自衛隊誘致の表明、土地の所有権の移転は、出来レースだった可能性が高い。
 田中と原子力を結びつけたのは、柏崎に拠点を置く理研ピストンリング(現リケン)の会長・松根宗一だといわれている。松根は愛媛県宇和島市出身で、日本興業銀行を経て理研に入った。理研ピストンリングの会長就任とほぼ同時に東京電力の顧問となっている。原子力産業会議の創設にもかかわっており、大政翼賛会人脈(「原子力の扉はこうして開けられた」参照)ともつながる。電力業界の総本山・電気事業連合会の副会長に選出されている。電力業界の生え抜き以外で副会長に就任したのは松根だけだ。世界のエネルギー事情に詳しい陰の実力者だった。
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