日本の原発のお話 1945-1954

はっきりいって知っている人には常識レベルの話。しかもサヨク風味w
しかし優等生の日経読者さんにはなじみ無いかも。
それにしてもこういうライターさんを起用するとは日経ビジネスはチャレンジャーだなあ。

原発は何処から、何処へ――
原子力の扉はこうして開けられた 敗戦から「原子力予算案」の成立まで

山岡淳一郎
2011年9月21日(水)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110916/222663/?mlt&rt=nocnt
(略)
 1948年12月24日、クリスマスイブ――この日、GHQは「逆コース」への転換をあからさまに行動で示した。前日に東条英機ら7人の戦犯を処刑したのとひきかえに、A級戦犯容疑者だった岸信介(1896〜1987)たちを釈放したのだ。岸は、戦中に商工大臣、軍需次官などに就き、経済統制を仕切った。上海で戦略物資を海軍に納めて大儲けをした児玉誉士夫らも解き放たれた。GHQは、協力的な元官僚や軍人、右翼を反共の「情報源」に利用したといわれる。
 近年、米国の史料公開が進み、岸や児玉がCIA(米中央情報局)と近い存在だったことが明らかになってきた。2006年7月、米国務省はCIAの日本政界要人への工作を公式声明で発表している。
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 戦後、最も早い段階で米国発の原子力発電に関わる情報を電力界にもたらしたのは、岸らと一緒にA級戦犯容疑を解かれた大臣経験者、後藤文夫(1884〜1980)だった。

 後藤は、戦中に国民の戦時体制への動員を押し進めた「大政翼賛会」の顔だ。翼賛会は、国家国防体制の政治的中心組織で、ナチスに倣った「衆議統裁(衆議はつくすが最終決定は総裁が行う)」方式で運営された。翼賛会は町内会や隣組を包含し、さまざまな国策協力運動を展開している。

 後藤自身は軍部の台頭に抵抗し、日米開戦を避けようとしたともいわれるが、翼賛会の副総裁、東条内閣では国務大臣を務めた。戦時体制のリーダーだった事実は動かせない。

 釈放され、3年ぶりにシャバの空気を吸った後藤は、元秘書官の橋本清之助と再会し、収監中に英字紙で仕入れた知識を披露した。橋本は、のちに「原子力産業会議(原子力産業協会の前身)」の代表常任理事に就任し、電力業界を束ねていくことになる。後藤との会話を、こうふり返っている。

「私が原子力のことをはじめて知ったのは、二十三年十二月二十四日、後藤文夫先生が岸信介氏などといっしょに、巣鴨プリズンから出てきたその日の夕方のことだ。スガモの中で向こうの新聞を読んでいたら、あっちでは、原爆を使って電力にかえる研究をしているそうですよ、というちょっとした立話が、最初のヒントでした」(『日本の原子力 15年のあゆみ』)
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 49年5月、「通商産業省経産省の前身)」が発足する。「日本株式会社」の司令塔の誕生である。貿易を通商と言い換えてはいるが、白洲の執念がこもった新省の設立であった。

 以後、通産省の内部には吉田―白洲―牛場信彦らの「外交・通商派」と、岸―椎名悦三郎―美濃部洋次らの「産業・統制派」、さらには「資源派」「国内派」などの派閥が生まれ、その対立抗争は現在まで尾を引く。こんにちの経産省内での原発擁護派、見直し派の衝突にも、その攻防史が影を落としている。

 白洲は、通産省の設立と並行して、電力事業の再編に取り組んだ。戦時国家体制で、電力会社は特殊会社の「日本発送電」と9つの配電会社に統合されていた。戦争が終わり、供給抑制が外されると電力需要は急拡大した。物資不足や空襲による発電施設の破壊、設備の劣化もあって供給が追いつかない。緊急制限による停電が頻発し、治安問題も生じた。

 日本発送電は、只見川や飛騨川、江の川などにダム式水力発電所の新規計画を立て、供給不足の解消に乗りだそうとした。その矢先、独占企業の整理を目的とする過度経済集中排除法の指定を受ける。

 GHQは、日本発送電と9配電会社に再編成計画を提出するよう命令した。日本発送電は通産省の管轄である。白洲は吉田と相談して、電力業界の重鎮、松永安左衛門を電力再編の審議会委員長にすえ、日本発送電の解体に挑んだ。

 松永は、軍閥に従う官僚たちを「人間のクズ」と放言し、新聞に謝罪広告を載せる事態に追い込まれたことがある(1937年)。軍人嫌い、官僚嫌いは筋金入りだ。松永は、すでに70代半ばだったが、気力旺盛。一貫して電力事業への国家の不必要な介入に反対した。GHQに直談判し、1951年、国会決議よりも効力が強いGHQポツダム政令を公布させる。日本発送電は地域ごとの9電力会社に分割・民営化され、事業再編が成った。

 電力事業は、官から民へと軸足を大きく移して再出発した。

 しかしながら、許認可権を握る通産官僚は、瞬く間に巻き返す。翌年には特殊法人電源開発を発足させて発電事業に参入。環境がどんなに変わろうが、官は生きのびる。

 いち早く原子力情報をつかんだ橋本清之助は、電力事業再編を巧みに利用した。日本発送電が解体され、最後の総裁だった小坂順造信越化学、長野電鉄などの創業者)が財団法人電力経済研究所を創設すると、橋本は常務理事に納まった。すぐに「原子力平和利用調査会」を立ち上げ、後藤文夫を顧問に迎える。電力経済研究所は、数年後に原子力産業会議へと姿を変えていく。

 かくして戦中の国家総動員体制の実践者たちが原子力ネットワークの要所を押さえ、官産複合体の芽が吹いたのだった。
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「官・産・学」に横串を貫けるのは「政」だ。この局面で、海軍主計大尉で終戦を迎え、内務官僚から政治家に転じた中曽根康弘(1918〜)が、原子力カードを握って躍り出た。

 朝鮮戦争が勃発して冷戦が熱戦に転じ、GHQは日本の統治どころではなくなった。講和条約締結による日本独立が射程に入ってくると、米国政府は再軍備化を突きつけてきた。

 中曽根は、この流れに乗った。51年1月、対日講和交渉で来日したダレス大使に「建白書」を差し出す。その文書で自衛軍の編成、再武装で足りない分の米国からの援助、最新鋭兵器の補給貸与、旧軍人の追放解除などを訴える。

 そして「原子科学を含めて科学研究の自由(原子力研究の解禁)と民間航空の復活を日本に許されたいこと」とつけ加えた。翌52年4月、講和発効で原子力研究は解禁された。学界では、しかしイデオロギー的対立もあって議論が紛糾する。

 中曽根は、学者たちの対立を横目に、53年7月、米国へ渡る。ヘンリー・キッシンジャー助教授(のちの米国務長官)が主宰するハーバード大学の夏季セミナーに通い、11月まで米軍関連施設を視察して回った。小型の核兵器開発に興味を持っていたと伝えられる。帰途、カリフォルニアのバークレー放射線研究所を見学し、原子力研究の推進体制を学んだ。中曽根は自著にこう記す。

「左翼系の学者に牛耳られた学術会議に任せておいたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した」(『政治と人生』)

 中曽根の帰国に合わせたかのように、53年12月8日、アイゼンハワー米大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説を行った。アイゼンハワーは、核軍縮を唱え、原子力の平和利用のために国際原子力機関IAEA)をつくろうと世界に呼びかける。米国人には忘れられない「真珠湾攻撃記念日」に行われた演説は、米国の核政策の大転換を告げるものだった。従来の独占、秘密主義から原子力貿易の解禁、民間企業への門戸開放へと切り替えたのだ。

 この演説の直後、中曽根は岸と四谷の料亭で会い、国家主義的な方向性を確認し合っている。翌54年3月、中曽根は、改進党の同僚議員と国会に「原子力予算案」をいきなり提出。予算案は、成立した。学界は「寝耳に水」と驚き、上を下への大騒ぎとなった。 

 吉田政権の命脈はつきかけていた。政治の軸は、軽武装の経済復興優先から、改憲再軍備による民族国家の立て直しへと移った。冷戦の激化と日米関係の変化、独立後の政権の弱体化、リベラリズムからナショナリズムへ。そうした潮目の変化は、原子力利用という具体的な案件に凝縮されている。見方を変えれば、原子力ナショナリストが支配体制を再構築するには格好のツールだったともいえるだろう。

 それにしても……私は、拙著『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』を執筆する過程でさまざまな資料に当たったが、中曽根たちの原子力予算案の提案趣旨説明には正直なところ、魂げた。改進党の小山倉之助は堂々と語っている。

「……MSA(米国の対外援助統括本部)の援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります」

 提案者が、原子炉建設予算の説明で、原子兵器を使う能力を持つために上程すると言い切っている。「軍事力増強−国家主義への憧憬」が、原子力の扉を押しあけた事実を私たちは胸に刻んでおく必要があるだろう。ここから原発の建設は始まったのである。

原発と権力: 戦後から辿る支配者の系譜 (ちくま新書)

原発と権力: 戦後から辿る支配者の系譜 (ちくま新書)