日本の対外援助には、「闘争力」もなければ「国益観」もない

お役人とは何もせず責任をとらない人たち。
そんな人たちがアリバイと自己利益のためにやってるだけ。

ODA削減でいいのか日本
美しく、そして空しき時を刻む日本 あって当然、対外援助の「表の顔」「裏の顔」
荒木光
2011年7月19日(火)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110713/221469/?P=1
(略)
 さて、日本はどうなのか。対外援助の「政策」は、ほかの先進国と同じように、国連の開発課題である「貧困削減」や「平和構築」に的を絞っている。そしてその上に「人間の安全保障」(飢餓や暴力的脅威から人びとを守る)という大きな理念をかぶせている。

 主に、アフリカの貧困削減やアフガニスタンの平和構築にODA予算の大半を注ぎ込んできた。これまでの経緯を見ていると、日本だけが「建前の政策」と言われようとも、真面目に持続的成長を前提としたアフリカの「貧困削減」や、平和への道筋がまだ見えないアフガニスタンの「平和構築」に挑戦中だ。
 
 しかし、結果は不透明。日本は欧米や中国のように、アフリカでの地下資源開発のリスクを軽減するために対外援助を絡ませようとしない。また、民間企業のアフリカ進出も消極的だから、日本のアフリカ支援は日本政府の単独行動となり、「直接的国益」に結びついていない。また、アフガン支援も全面的な戦闘状態の中で日本企業が手を出せない。美しい建前の世界の中で、日本のODAは空しい時間を刻んでいるとしか言いようがない。
 
 民主党政権は新成長戦略の一環として、アジアでの大型インフラ整備協力を唱えているものの、かつてのような官民連携の動きは見られない。
ODAがどのくらい民間の要請に応じてくれるか分からない、という民間側の不安が払拭されていないからである。
 
 その不安感は、これまでODAが建前の世界を突き進み、円借款のアンタイド化(日本にヒモを付けない)など、民間の輸出力強化や海外投融資と積極的に連携しないケースが多かったことに由来している。
 
 最近になって、ようやくODAベースの海外投融資や、BOP(貧困層)ビジネス支援が店開きしたばかりである。
 
 例え、民間の技術的な連携であっても、特定の1社だけを支援することはできないという公の理屈をもって、優れた日本の技術の海外展開を鈍らせている。とにかく、そこには「直接的国益」につなげる政策的配慮が見られない。
 
裏も表もない、そして戦略もない
 
 日本は1960〜70年代から貿易、投資、経済協力の三位一体で東南アジア諸国連合ASEAN)を支援してきたが、現在、シンガポール、マレーシア、タイなどの援助卒業国とは関係が薄くなりつつある。その間隙を縫い、韓国や中国の企業が自国ブランド製品をひっさげて相次ぎ進出しているのに、日本は対抗意識を燃やそうともしない。英国が英連邦加盟の途上国を大切にするのとは対照的だ。
 
 日本の対外援助には、「闘争力」もなければ「国益観」もないのではなかろうか。口先では「科学技術立国」と言うが、留学政策、共同研究による人材育成政策、ハイレベルの交流政策などが外交課題化していない。
 
 「内政と外交が戦略的に結合していない」。それが今の日本のODAの実態ではないか。そう言われて、関係者の誰もが抗弁できないだろう。

 今後の日本経済の再建のために、ODAも「直接的国益」を求めないと納税者の理解は得られなくなる。とにかく工夫さえすれば、日本の対外援助は援助される国との間でWin-Winの互恵関係を創り出すことができるはずである。今の時代において「互恵」こそ国益なのである。