タイガー・マザー 中国人教育ママの実態


 
なんか、話が大分違うじゃん。
やっぱり原典にあたらないで感想書くのはキケンだな。。。
ちなみに現時点で僕は読んでいません。

ベストセラーで読むアメリ
タイガー・マザー 中国人教育ママの実態
「体育と演劇を除くすべての教科で1番でなければならない」
2011年06月09日(Thu)森川聡一
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1366?page=1
   

Battle Hymn of the Tiger Mother

Battle Hymn of the Tiger Mother

 
 中国式スパルタ教育で娘2人を厳しく育てた体験記だ。タイトルを直訳すると「タイガーマザーの闘争賛歌」となる。筆者はアメリカの名門エール大学で教べんをとる中国系アメリカ人のエイミー・チュア教授。子どもの人格や自主性を尊重する欧米式の教育とは正反対に、子どもを罵倒しながら無理やり勉強をさせる猛烈な教育ママぶりが全米で話題となった。

 ニューヨーク・タイムズ紙の1月30日付の週間ベストセラーリストの単行本ノンフィクション部門の5位で初登場し、最高2位まで浮上するなど、11週連続でベスト15位の中に顔を出した。どこの国でも子どもの教育に対する関心の高さは変わらない。アメリカとで例外ではない。特に、OECD(経済開発協力機構)が2010年暮れに発表した、各国の学生の学力調査結果では、上海が全3科目でトップを独占。中国式の教育法に対する関心が高まっていたことも、ベストセラー誕生の追い風になったようだ。

 次に引用する本書の冒頭の一節がすべてを物語る。(略)
 
 「中国人の親たちはどうやって、あんなに優秀なこどもたちを育てているのだろう。多くの人々がそう思っています。あれだけ多くの数学の天才や音楽の神童を生み出すために何をしているのか。家庭の中はどうなっているのか。わたしたちでも同じことができるのだろうか。実は、わたしはその秘密をお教えできます。なぜなら、わたし自身が実践したことだからです」
 
 この一節はさらに次のように続く。(略)
 
 「2人の娘、ソフィアとルイーザには、次のようなことは絶対に許しませんでした。
・友達の家で外泊すること
・友達と集まって遊ぶこと
・学芸会に出ること
・学芸会に出ないことについて文句を言うこと
・テレビをみたりコンピュータ・ゲームをしたりすること
・課外活動をすること
・Aより悪い成績をとること
・体育と演劇を除くすべての教科で1番にならないこと
・ピアノやバイオリン以外の楽器を弾くこと
・ピアノやバイオリンを弾かないこと
 
 つまり、学校で勉強は一番をとり、ピアノやバイオリンの練習は欠かさない。おまけに、勉強以外の課外活動やゲーム、友達との遊びは禁止、というわけだ。
 
 嫌がる娘に無理やりピアノやバイオリンの練習をさせ、夏休みに家族で海外旅行に出かけても、宿泊先のホテルの宴会場やレストランでピアノを借りて、観光よりも練習を優先するなど、かなりのスパルタ教育ぶりを本書は回想している。
 
 では、中国式と欧米式では、子どもの教育のしかたに、どんな違いがあるのだろうか。本書の筆者であるチュア教授は、大きな違いが3つあると指摘する。(略)
 
 「第1に、欧米の親は子どもの自尊心にとても気を配る。何かで失敗したら子どもが傷つかないだろうかと心配し、学校でのテストや音楽会での演奏のできがあまりよくなくても、よくできたと子どもを常に励ます。つまり、欧米の親たちは子どもの気持ちを気遣う。中国人の親はそうではない。弱気にでないで、強い態度で臨むため、その結果として、とても違う行動に出る」
 
 例えば、学校のテストで多少悪い点数をとってきても、欧米の親たちは子どもたちをほめる。半面、中国人の親は、「ばか」や「役立たず」「恥だ」などと、子どもをののしるという。(略)
 
 「第2に、中国人の親たちは、子どもは親にすべてを負っている、と信じている。その理由はあまりはっきりしないが、儒教の親孝行の考え方にくわえ、中国人の親は子どものために犠牲を払い相当のことをしてきたことが、おそらく影響している」
 
 子どもは親のおかげで生きていけるのだから、親に従うのは当たり前だ。だから、厳しく教育する。古い日本人なら納得がいく教育観が、中国人の親にもあるようだ。(略)
 
 「第3に、中国人の親は子どもにとって何が最善かを分かっていると信じている。その結果、こども本人の希望や好みをすべて踏みにじる。だから、中国人の娘は高校でボーイフレンドが持てないし、中国人の子どもはキャンプで外泊することも許されない」
 
 本書が描くあまりのスパルタぶりをみて、アメリカでは本書に対し批判も巻き起こった。こどもの人権侵害や虐待にもつながるとの批判が出た。しかし、これはあまりに表面的な批判だ。なぜなら、本書は単なるスパルタ教育の成功話を書いている訳ではないからだ。後半に入って、事態は急転換する。
  
 厳しい教育のおかげで、長女はピアノで神童ぶりをみせ14歳で、ニューヨークのカーネギーホールで演奏会を開くほどになる。しかし、バイオリンの練習を毎日強要され、かなり上達したはずの次女が13歳の時に突然、母親に反旗を翻すのだ。家族でモスクワに行き、赤の広場に近い屋外カフェでキャビアを注文した時に事件は起きる。「気味が悪い」と言ってキャビアを食べようとしない次女(ルル)に、母親のチュア教授は食べるように厳しく命じた。すると、2人の間で「食べる」「食べない」で押し問答が続き、次のような修羅場が演じられた。
 
 「分かってるわよ、わたしはお母さんが望むような子じゃないのよ、わたしは中国人じゃない! 中国人になんかなりたくない。どうして、そんなことも分からないの? バイオリンなんか嫌い。こんな生き方はいやだ。お母さんなんか大嫌い。家族で一緒にいるのもイヤだ! このグラスをたたき割ってやる」
「やりなさいよ」わたしは負けないように言い返した。
ルルはグラスをテーブルの上からつかみあげると、地面の上に投げつけた。水とガラスの破片が飛び散り、他のお客さんたちが息をのんだ。みんな私たちを見ているのを感じた。みっともないありさまだった。自分の子どもをコントロールできない欧米人の親たちを、否定することでわたしはずっと生きてきた。それなのに、よりによって、自分の娘がとても無礼で粗野、暴力的なこどもになってしまった。
ルルは怒りで身を震わせ、目には涙があふれていた。「わたしのことをほっといてくれないと、もっとグラスを割るわよ」と、ルルは叫んだ。
わたしはイスから立ち上がり走り出した。どこに向かっているのか分からないまま、全力疾走した。気の違った46歳の女がサンダル履きで泣きながら走ったのだ。レーニン廟のそばを走り抜け、もしかすると発砲してくるかもしれない銃をもった守衛のそばも走り抜けた。
そして、わたしは立ち止まった。赤の広場の端っこに来ていたのだ。もう先には進めなかった。
 
 このロシアへの旅行からアメリカに帰った翌日に、チュア教授は本書の執筆を始めたことも本の中で明かしている。次女ルルはその後、母親が押しつけてきたバイオリンではなく、自分でやりたいと思ったテニスの練習に熱中するようになる。
 
 つまり、本書はアメリカで物議をかもしたのとは裏腹に、中国式スパルタ教育を手放しで礼賛するものではない。その失敗と反省の念も書き記しているのだ。子を持つ親として評者・森川は一読して非常に感動した。
 
 読み終えて再度、本書の最初からページを繰り始めて、目次の後の扉ページを見落としていたことに気づいて驚いた。なんと、そこに本書の本当の主題がちゃんと前もって、明示されていたのだ。(略)
 
 「この本は、中国人の親たちが欧米の親たちよりも、子育てでいかに優れているかを語るはずだった。しかし、そうではなく、ほろ苦い文化の衝突や、つかの間の栄光、わたしがいかにして13歳の娘にたたきのめされたのか――を語る本になった」