南京陥落


1937年8月13日蒋介石は上海の日本租界への攻撃を開始、日本に対し開戦した。
ドイツ軍参謀ファルケンハウゼン立案したフォン・ゼークトが構築した上海要塞を拠点に救援に駆けつける日本軍を撃滅する作戦だった。
ところが豈図らんや日本租界は懸命に持ちこたえたうえ救援の日本軍は多大な犠牲を払いながらも2ヶ月後10月26日には逆に上海を占領してしまった。
慌てた国民党軍首脳は南京へ逃亡。
日本軍と国府軍が殺到する大混乱の末、12月10日には日本軍は南京も制圧。
降伏勧告後の12月13日に堂々の凱旋入城となった。
有史以来はじめて日本が中華帝国の首都を占領したという世界史的な出来事であった。
 

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【昭和十二年(1937)八月】
(略) 
 13日に上海事変が起こった。蒋介石軍が大部隊で上海を包囲しているという。新聞で見るかぎり、もうかなり本格的な戦争だが、日本軍は海軍の陸戦隊が戦っているらしい。上海に大きな租界をもっているイギリスとフランスは、蒋介石軍にあまり友好的ではないというが、どうしてだろう?
 イギリスとフランスは、もし蒋介石軍が一歩でも租界に入って来たらこちらも武力で対抗する、という声明を出したらしい。
 
【昭和十二年(1937)九月】

 海軍の叔父が来た。さっそくいろいろ訊ねてみる。イギリスやフランスが蒋介石をあまり快く思っていないのは、ドイツとの関係からだそうだ。欧州大戦に敗れたドイツは戦後の経済的な建て直しの一つに支那との貿易に重点をおき、特に武器の輸出をしていた。その取り扱いや用兵術の指導のため軍事顧問団を派遣している。だから蒋介石軍はナチスと同じ武器を持ち、服装もドイツと同じなのだそうだ。だからヒトラーが欧州で英仏相手に敵対的になるに及んで、英仏は蒋介石を快く思わなくなったらしい。蒋介石が日本に対して強気なのはドイツが後ろ盾だと思っているからだそうだ。ドイツの軍事顧問団は上海にドイツ式の要塞まで作っている。だから日本軍と一戦交えて、北支から日本の勢力を一掃しようという計画のようだ、と叔父はいう。
 
 でも、おかしいなあ? … ドイツは日本と防共協定を結んだばかりなのに …
 
 父と叔父が盛んに情勢の分析をしている。蒋介石の軍事顧問はファルケンハウゼンというらしい。ファルケンハウゼンは大軍を上海の包囲に動員するのに反対しているらしい、と海軍の諜報機関は把握しているとのことだ。もし上海の要塞戦で蒋介石軍が敗れるようなことがあれば日本軍はそのまま南京まで突進して来るかもしれない、それはあまりにも危険だ、と説得しても蒋介石は強気一方だという。蒋総統から見れば、日本はクーデター事件が起きるくらいに陸軍の中はガタガタで、しかも今は左寄りの近衛の内閣だ、日本を北支から追い出すのは今しかない、天皇華族の政治家はソ聯を怖れているし、そのソ聯とは今回不可侵条約を締結したから日本に負ける筈がない、と思っているらしい、とのことだ。しかしヒトラーは、蒋介石がソ聯と結んだので支那への応援をやめ、それ以後は日本と協調する、ということになったらしい。2.26事件のようなことがあったからといっても、日本は依然として強国のままなのを蒋さんは読み違えておるんじゃろうな、と叔父はいう。
(略)
 今月から「北支事変」は「支那事変」と名称が変わった。
 
【昭和十二年(1937)十一月】
 
 6日、日独伊防共協定が結ばれた。ちょうど一年前の日独防共協定にイタリアが仲間入りをさせて欲しい、と申し込んだのだそうだ。なんだか心強い気がする。まあ、味方は多いに越したことはない。学校で日独伊三国のバッチが配られ、駅には三国協定弁当まで並んだ。でも、30銭はチト高いぞ。かけうどんなら4杯は食べられるのだ …
 
 12日、とうとう日本軍が上海の周囲にある要塞群を完全制圧し、蒋介石軍は南京に向け敗走し始めたそうだ。これで上海は陥落したことになる、と先生は言った。父は海軍の叔父から詳しいことを聞いているらしく、この要塞はゼークトラインといって、現在の蒋介石の軍事顧問であるファルケンハウゼンの前任者ゼークトが構築したものだそうだ。ゼークトとヒトラーはあまりしっくり行っていなかったらしい、とのことである。ゼークトが作った要塞が、日独伊防共協定締結の一週間後に壊滅したことになる。なんだか不思議な気がする。
 
【昭和十二年(1937)十二月】
 
 日本軍が南京に向けて殺到している。通州事件のことで日本中が大人から子供まで激怒しているから、早くメチャメチャにやっつけてほしい、とみんなが思っているのだ。このままではとうてい腹の虫がおさまらないのである。海軍も上海で事変前に大山海軍中尉が自動車で通行中にとつぜん支那の保安隊に襲撃され、機関銃の乱射を受けて惨殺されたから、もう腹わたが煮えくりかえっている。
 
 7日、蒋介石がこっそり南京城を脱出したらしい、という話だ。9日、南京城に到着した日本軍が城を包囲して中の司令官に投降を勧告したが、決められた時間になっても返事がないので揚子江の軍艦が城内に艦砲射撃を繰り返しているとのこと。先生は授業そっちのけで戦況を皆に伝えている。
 
 10日、いよいよ総攻撃が始まった。
 
 13日、南京陥落! 夜に全国で戦勝の提灯行列が行われた。とうとう国民政府の首都を占領したのである。
 
 呉の海軍軍医の叔父から、以前付き添いで看護をしたことのある某宮様の邸に来るよう命じられたので軍艦で横須賀に行くが、帰りは汽車で京都に立ち寄る、との知らせがあった。宮中に大本営が設置されたが、前線の実態を収集しているとのこと。戦傷者は最前線で戦っていたので実状を知っている当事者だから、叔父がそれらの話しをまとめて報告するらしい。いちばん実態の情報を求めて居られるのは陛下で、真相が把握できるように上海派遣軍の司令官には朝香宮鳩彦王が任命されたが、南京攻略の総司令官にもしたいということだったものの、その後どうなったかはまだわからん、とのことである。とにかくもうすぐわかることだ。学校の校長が叔父の講演を熱望している、とのこと。ドイツを通じて和平交渉が進められたが、蒋介石が断わったらしい。朝日新聞によると住民が日本軍を大歓迎しているそうだ。それにはいろいろわけがあるらしい。
 
 叔父が来た。展望車付きの白切符の一等車で来たそうだ。いいなあ … 一生に一度でいいから乗ってみたいと思う。でも金を出せば乗れるというものではない。宮様の邸を去るとき、菊のご紋章入りのもなかを頂いたが、あんまり腹が減ったので途中で食うてしもうた、とのこと。さっそく戦況について聞いてみる。非常に短時間で南京まで進撃したのが不思議なのである。叔父は、それは簡単な話だ、といった。突撃すると突然敵が居なくなるらしいのだ。
 
 「蒋介石軍には督戦隊というものがおっての、これはソ聯のマネをしたらしいんじゃが、逃げようとする兵を後ろから射殺するのだ。だから敵は兵力が激減する。なかには日本軍のほうが督戦隊より強そうだと思うと、やぶれかぶれで督戦隊のほうを攻撃して逃げようとするわけだ。だからこっちにとっては楽な戦いになる、というわけじゃな」 と叔父は笑った。
 
 南京城に逃げ込んだものの、日本軍に城壁を突破されるとあわてて軍服を脱いで平服に着替える。しかし民間の服は所持していないから住民の家に押し入ってその着衣を奪う。食事も支給されていないので手当たり次第に略奪し、抵抗するものは皆殺しにする。そんなわけで日本軍が突入してみると現場は惨憺たる有様だったという。
 
 だから路上にはヘルメットや軍服が散乱し、殺された住民の死体があちこちに転がっていたらしい。
 
 そんな状況だから住民は日本軍がくるとみな大喜びをし、変装した蒋介石軍兵士や潜んでいる便衣隊の居場所を進んで教えたそうだ。そこで日本軍は一般住民には良民票を渡し、敗残兵は手当たり次第処刑した。軍服を脱いだら生きて捕虜になる資格はないから、便衣隊はすぐさま処刑すべし、という命令も出されたとのことである。
 
 そして上海と南京の間は綺麗サッパリ、もう何もかもなくなっていたらしいという。これは『空室清野戦術』 といって、建物も畑の作物も焼き払って何も残らない状態にし、日本軍に利用されるのを防ぐ目的だったが、これもこちらにはプラスに作用し、潜んでいる敵兵の捜索などの面倒がないので素通りで突進することができた、とのことだ。
 
 いったん負けいくさになると、何もかもが敵の利になってしまうのは古今東西の理なのだそうだ。そしてドイツだけは信用してはならん、海軍はドイツのやり方を百も承知でドイツと組むのに反対しているが、陸軍はドイツと同盟まで結ぼうという連中がいるから困る、と嘆いた。
 
 驚いたのは 2.26事件のとき、この機に乗じて上海その他の日本租界を奇襲攻撃しよう、とドイツの軍事顧問のファルケンハウゼンと蒋介石が計画していたらしい。思いとどまったのは、たとえ今は日本の陸軍が混乱していても海軍には関係ないし、もし海軍陸戦隊が上陸してきたら危険だ。現在艦砲射撃に対応できる大型の火器はない、ということだったらしいとのこと。海軍にはいろんな機密情報が手に入っているらしい。
 
 どうしてそこまでドイツは日本を敵視するのか訊ねてみると、ついこの間まで日独は敵同志だったのだ、南洋群島も青島もこの前の世界大戦で奪われて日本海軍の支配下にあるから、いつか取り返したいのかもしれん、とのことだ。とにかく商売上の利益が日本のためにダメにされてしまったのを取り戻したいらしいのである。
 
 だからドイツを信用してはならんのじゃ、と叔父はいった。更に蒋介石の政府は狡猾で、南京の自軍の所業や『空室清野戦術』の結果の写真をそのまま日本軍の仕業のように見せかけて国際連盟に訴えたりするなど、宣伝活動を盛んにしているとのこと。
(略)
 
【昭和十三年(1938)一月】
 
 16日、近衛内閣が「爾後国民政府を対手とせず」という声明を出した。
 これから蒋介石にかわって日本に協力する人々が南京に臨時政府をつくることになったらしい。町中に南京陥落の幟が翻っている。
(略)

追記)
ところで阿羅健一さんの『日中戦争はドイツが仕組んだ』で「中国軍は士官学校生を中心に戦意が高く、足をトーチカに鎖で繋いで決死の抗戦を行った」という趣旨の文章があって違和感があった。漏れのような共産主義マニアからすると信用していない兵士に闘わさせるために鎖で繋ぐとか逃げようとすると後から射殺するとかはごくフツーにあること。この上海事変での見聞は日本軍の従軍者の証言をそのまま記録したのだろうけど、その人自体勘違いしている可能性が高い。そんな浪花節みたいな世界じゃないんだって!
  
追記)
おまけ
チャイナの公定イメージ(笑)