真実の前に「死に体」の社民党

  
ヒラリー主導の北鮮征伐を前にしての鳩山政権への牽制記事かな?
   

【コラム】真実の前に「死に体」の社民党
記事入力 : 2010/05/20 11:40:12
 
 北朝鮮による日本人拉致事件について調べていくと、「辛光洙シン・グァンス)」という名前に突き当たる。辛光洙容疑者(80)は1980年に日本人調理師の原敕晁(はら ただあき)さん(当時43歳)を拉致した北朝鮮のスパイで、この事件で国際手配されている。韓国に潜伏中に逮捕されたのは85年。韓国政府により、その犯罪内容が明らかになった。政府はこれを日本に知らせ、当時の韓国各紙も詳しく報道した。


 4年後の89年、首をかしげるような出来事が始まる。日本社会党(現:社会民主党〈=社民党〉)の国会議員らが、韓国に収監されている政治犯29人の釈放を求める要望書を提出した。その一人が自国民を拉致した辛容疑者だった。韓国の金大中(キム・デジュン)大統領(当時)が「ミレニアム恩赦」で辛容疑者を釈放したのは10年後の1999年。翌年には北朝鮮に送還された。その後、北朝鮮で「全国統一賞」を授与され、顔が印刷された切手まで発行された。


 この時の釈放要望書に署名した千葉景子議員は、97年に社会党を離党し、民主党に入党した。昨年、法務大臣になった時、「『うかつだったのかな』という気持ちはある」「大変申し訳ないという気持ちではある」と反省した。金大中大統領は2005年、朝日新聞とのインタビューで、「報告を受けていなかった。受けていたら別の措置を取っただろう」とし、それ以上は言及しなかった。


 日本人拉致が改めてクローズアップされたのは、大韓航空機爆破事件の犯人・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元北朝鮮工作員日本語教師李恩恵(リ・ウネ)」の存在を明らかにした87年だ。当時、韓国政府が日本に提供した情報は「李恩恵」の出身地・職業・特技・特別活動など具体的な内容だった。日本政府はこうした情報を基に似顔絵15万枚、ビラ130万枚を全国に配布した。


 日本が「『李恩恵』は拉致被害者の飲食店店員・田口八重子さん」と発表したのは91年だ。それでも社会党は「捜査当局の発表だけでは事実確認できない」と抵抗した。だが実は、当時の社会党は真実に最も近いところにいた。88年に拉致被害者家族が真っ先に訴えた政治家こそ、土井たか子社会党委員長(当時)だったからだ。北朝鮮金日成(キム・イルソン)主席のことをよく知っているだけに、問題を早期に解決してくれると信じていた。だが、土井氏は沈黙した。
 
 97年、鹿児島県の海岸で北朝鮮の乗組員を乗せた貨物船が座礁した。当時、取材のため現場に行ったが、人通りのない夜道で日本人の恐怖に思いをはせた。子供たちは昼間でも外に出られない。地元住民らは「貨物船に拉致されるのでは、と思うと怖い」と言った。北朝鮮の拉致犯罪は、日本国民全員が認識している現実だった。


 それでも、社会党(96年以降は社民党)は02年まで、北朝鮮による拉致を事実として認めなかった。辛光洙事件が明らかになってから17年間、金賢姫工作員の証言から15年間、真実に目をつぶってきたのだ。02年は、金正日キム・ジョンイル北朝鮮労働党総書記が自らの言葉で拉致の事実を認め、謝罪した年だ。土井氏は「拉致被害者に申し訳ない」という一言で、苦しい立場を逃れようとした。


 社会党は「朝鮮労働党唯一の友党」であることを誇りにしていた。北朝鮮とのパイプを政党の存在理由にし、強大な圧力団体だった在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)の支援を受けた。国民の拉致や死に目をつぶり、朝鮮労働党代理人的な役割をしたのには、そうした理由があった。

 
 社民党は今も北朝鮮を公然とは批判していない。それが理念であり、存在理由だというのだから、誰が彼らを止められるというのか。しかし、その社民党も、自らを徐々に、そして静かに枯死させていく有権者の前には無力だった。一時、衆議院議員166人を抱えた同党だが、現在の同院議員数は7人。真実から目を背けていたこの20年間に、野党第一党から一小政党に転落したのだ。
 

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
朝鮮日報朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/news/20100520000046