端午の節句


   


   
最近の子供は柱に兄弟が少ないし柱に傷を付けたら怒られそう。
幼稚園とかで「背比べ」なんかしたら人権ファシストが糾弾しそう(^_^)
   

粽(ちまき)の由来


粽の由来を紐解いたら、端午の節句のルーツがありました。
(画像提供:季節の手づくり和菓子処【菓宗庵】)


 
今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
  
その時の思いを綴った「離騒(りそう)」という長編叙事詩が中国文学の名作となりますが、国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったそうです。その日が5月5日です。
   
国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)※の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。
※楝樹(れんじゅ)、茅(ちがや)、笹などの説があります。
 


鯉のぼりの吹き流しも、本来は五色です。

これが粽の始まりとなって、中国では5月5日に粽を作って災いを除ける風習ができ、端午の節句となって粽とともに日本に伝来したのです。また、粽に結んだ赤・青・黄・白・黒の五色の糸は、子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込め、鯉のぼりの吹流しの色に反映されています。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20080421A/index2.htm

    

Q:『背くらべ』の歌の中に「柱の傷はおととしの……」とあります。どうして、昨年じゃないのでしょう?
    

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A: maroさんから
 

 
作詞者「海野厚」さん(1896〜1925)は七人兄弟の長兄で、毎年5月5日になると帰省し兄弟姉妹の身長を測っていたそうです。
「あの歌は私たち兄弟姉妹のことを歌った生活記録」と後に弟さんが新聞社のインタビューに答えていらっしゃいます。
つまり「測ってくれた兄さん」は作詞者の海野厚さん自身です。
この詩が発表されたのが1919年。
海野さんは学生でした。
海野さんは身体が弱く、肺結核のた28歳の若さで亡くなっています。
作曲は「中山晋平」さん。
中山さんは、海野さんの体調が良くないことを知って作曲を急ぎ、海野さんに「2番」も作るよう進言したとの逸話があります。
曲が発表されたのは1923年です。
「去年ではなくて一昨年」なのは「去年は帰省できなかった」からなのだそうです。
「帰省できなかった」理由でもっとも有力なのが「病気療養のため」とのこと。
一般的に有名な説となっているのは……
既に肺結核を患っており体調が悪くて帰省できず、翌年帰ることを想定して故郷で自分の帰りを待っている弟たちの気持ちになって作詞した。
しかし、この歌の翌年には入院し帰らぬ人となった。だから柱の傷は「おととし」のまま
……という「ちょっと悲しい話」なのですが、詩と曲の発表年に差が有ることを考慮するとちょっとマユツバかも。
最近の研究では「海野さんが尊敬してる先生が亡くなり、その追悼会に出席するために里帰り出来なかった」という、ごく普通の理由で里帰りできなかったという説があるようです。
http://homepage1.nifty.com/tadahiko/GIMON/QA/QA351.HTML