「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証

山陰中央新報の古い記事からメモ。
しかし、こういう国益に資する記事をさっさとネット削除しちゃうってのは公器としての新聞の役割をどう考えているのかね?
まぁ、報道番組すら動画サイトから削除してしまうテレビ局よりはマシだが。

「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証

于山島についての記述があった「日省録」の一部。中央に「北有于山島周回為二三里許」(波線部分)とある(ソウル大学奎章閣のホームページから)
             
 日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島が、現在の韓国・鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であることを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県竹島問題研究会が古地図を基に指摘する「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初めて。
       
 文献は、一七六〇−一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)の「日省録」。韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。
    
 日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百−千二百メートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の記述があった。
       
 鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。竹島鬱陵島から九十二キロ離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか考えられない」と結論付けた。
      
 竹島問題研究会の座長を務めた下條正男拓殖大教授は「地図から見て、于山島は竹島ではなく竹嶼であるのは明白だったが、文献で示されたことは意義深い」と評価している。
      
 竹島問題で韓国側研究者はこれまで「地図より文献の記録を重視すべき」と同研究会の主張に反論していたことにも触れ、下條教授は「研究会の見解が正しいことが裏付けられた」と述べた。
      
('08/01/19)
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=493162004

 

Saturday, January 12, 2008
1807年5月12日 - 李泰根が鬱陵島を検察する
Gerryの投稿の日本語訳です。原文はこちら↓(English) 原文画像あり
1807 - May 12 - Lee Tae-gun (李泰根) Inspects Ulleungdo
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1807-may-12-report-of-ulellungdo.html
 
次の文章は、越松の将軍である李泰根が1807年5月12日に鬱陵島を視察した時の記録で、1760年から1910年に渡って朝鮮王朝での出来事が記録された「日省録」に収録されているものです。
 
この記録では、鬱陵島への密航者が紫香、竹、そしてアシカを採集していた事を記録しています。また、于山島が天底仇味の北にあると言っています。ただし、これは何かの間違いのようで、というのは天底仇味は鬱陵島の北にあり、そこから于山島は東にあるはずだからです(韓国の古地図は于山島を鬱陵島の北東沖に描いている。)。 しかし、どう解釈しても、この1807年の検察記録は于山島が鬱陵島の隣接島であるとしか読めません。つまり、これは于山島が"独島(竹島/Liancourt Rocks)"の古名であると言う韓国側の主張を崩す更なる証拠の一つと言えるでしょう。竹島/Liancourt Rocksは、鬱陵島の東南92kmに有る島なのですから。
 
江原監司の金履喬が、順天等三村の守令が鬱陵島への密航船に警告しなかった罪を諭した事を報告
四月初七日に本島に到着し宿泊しました。島の形状をあまねく調査したところ、左に黄土窟右に屏風石があり、黄土仇味より中峯まで三十里位でした。そして山々がそびえ立ち清らかで冷たい泉の水のある所に人家の跡と田や畑として耕作可能な土地があり四十余りの石落となっていました(石落、意味不明)。傍らには香木亭があり香木が削って置いてあり、又捕らえたアシカの皮も置いてありましたがこれは密航船のしわざでした。北に向かって十里余りの海中に中央に舟の通れる穴のある石が聳え立っていて其の名をを孔巖といいます。そして錐山巖に向かっていきました。この巖はきりが立っているような形をしていました。南には天底仇味があり、谷の入り口は奥深く十里余りありました。北には于山島があり一周二三里(800m〜1200m)ほどの大きさでした。南に行き着いた所に都庄仇味があり谷の入り口から奥のほうまで立ち入ってみると竹林がありましたが密航船によって乱雑に叩き切られていました。(現代語訳:yabutarou)
 
以下は密航者についての報告ですが、省略しています。
 
(以下訳注)この検察記録では、于山島の位置について方位が違うようですが、重要なことは、于山島が、検察官が実際に探索した記録の中において鬱陵島の周囲にある島であり、92km離れた島ではないといことがが明確に記録されていることです。天底仇味と都庄仇味の間にあることと、島の周囲が2,3里とあり、二島からなる現在の竹島の記述としては不適切で、この于山島が現在の竹嶼であることは、ほぼ間違いないでしょう。このように、朝鮮王朝から派遣された検察官が、于山島が鬱陵島に隣接する竹嶼である事を明確に記録していることは、彼等が朝鮮王に献上した地図三枚の「鬱陵島圖形」中、1699年と1702年の"大于(干)島"、そして1711年の"所謂于山島"が現在の竹嶼の位置に描かれていることと一致するものです。
 
1699 - Today's Kwannundo(観音島) and Small Udo(小于島) in 「欝陵島図形」 by Choson Official Inspector, the Identical Figures. (1699年の「鬱陵島図形」)
Went to Samcheok Museum today, and.... (1702年の「鬱陵島図形」)
「石島は独島」説否定 最古の鬱陵島絵図2枚確認 (山陰中央新報 : 1699年と1702年の「鬱陵島図形」) )
1711年 - 朴昌錫「鬱陵島圖形」
 
Posted by Kaneganese at 6:42 PM 1 comments Links to this post
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