小塚原・鈴ヶ森

  

   
江戸の街は実に理念的に設計されていて感心する。
その考え方には独特の浄不浄観があるので、いまは隠蔽されているが、つまりこういうことだ。
江戸城を巡って一種の大使館である武家屋敷が並ぶ。
そのイーストサイドに商業地区があり、ダウンタウン日本橋を中心として問屋・家内制工業地区・住居地が密集する。
物流の大動脈が大川=隅田川である。基本的に物資は南北より海道を経て隅田川から陸揚げされた。
だから隅田川の西岸は市場であり東岸は倉庫街であり、木場もある。
日本橋を起点に北にゆけば奥州に通じ、南にゆけば西国に通じる。西国へはもう一本山中をゆくバイパスがある。(中山道
日光街道はお墓参りのため、甲州街道は避難ルートだから実質2街道と思う)
そしてそれぞれのルートをゆくと、まずハレである江戸を守る2大寺院を通過する。
そこから先は基本的にケガレの世界、寺社エリアだ。
葬儀火葬埋葬などを行う。
必然的にケガレ仕事の人夫が住む。これが穢多非人と呼ばれた被差別民だ。
彼らや犯罪者、浮浪者などが集住する地域はタメと呼ばれた。
そして江戸を出て最初の宿場に岡場所が置かれた。
北の吉原と南の品川が並び称された。
同時に同じ場所に仕置き場が設置された。小塚原と鈴ヶ森である。
刑死者の供養のための寺が回向院と大経寺だ。
塞外から江戸への流入者への警告の意もあったろう。
そしてそのケガレの拡散を防ぐために強力な神社が宿場の入り口に置かれていた。
素盞雄神社と品川八幡である。
そして旅人はここで旅の安全を祈願し、大川・目黒川を渡り街道に進んだのだ。
他方、刑場に送られる罪人は随道の泪橋係累や江戸との別れに泪したのだった。
 

奥州街道日光街道
大川/大橋〜千住宿
素盞雄神社
小塚原仕置き場+回向院
吉原遊郭(北)
浅草溜(被差別部落
泪橋
寺社地
寛永寺

江戸

増上寺
寺社地
泪橋
品川溜(被差別部落
品川遊郭(南)
鈴ヶ森仕置き場+大経寺
鈴森八幡宮
目黒川/境橋〜品川宿
東海道

   
追記)
ところで、なぜ家康は首都を江戸=穢土と名付けたのだろう。
結局のところ人の世は穢土に過ぎない、「欣求浄土厭離穢土」という達観があったのだろうか。