カチンの森

   
土曜の最終回、岩波ホールはほぼ満席。平均年齢50歳超。上品な元サヨク婆さん多し。30%。
30前後の若いのもやっぱりインテリ系。オーバードクター風多し。カップル僅少。
まぁ岩波インテリ向けってことで。
   
しかしこの映画、サヨク的には微妙なはず。
なにしろソ連の犯罪をナチが暴くわけだからね。
で、物語の後半は共産主義者が歴史を捏造してなんでもナチのせいにして自国民を抑圧する話。属国の悲哀。
しかしワイダは淡々と「真実」をえぐる。
最後に妻の元に届けられた手帳で真実を知る。
リアルな再現カット。
その後は語られない。
語ることは蛇足なのだ。
ワイダが語りたかったのは、ソ連の犯罪でも、ナチの暴虐でも、傀儡政府の堕落でもない。
ただ真実。
真実からしかすべては始まらないということ。
漏れにはその気持ちが痛いほど伝わった。
だからこれは普通の意味での政治映画ではないのだ。
それ以上の、すべての前提となる物語なのだ。
  
 


   
追記)
もっと分かりやすく書くことにした。
 
この映画の微妙なところは、簡単な善悪図式で安心させてくれないことなのだ。
なにかを信じている活動家も、本当は騙されているかもしれない。
善意の共産主義シンパにとってはとても重い問いだ。
真面目なサヨクですら、ソ連の犯罪を暴くことはナチの犯罪を相対化するのじゃないか?と躊躇した。
躊躇を恥じろ!
それが後半なんども畳み込まれるテーマだ。
 
ここでつい振り返ってしまうのはヘタレニッポンサヨクのことだ。
ワイダの問いかけを、外国の事件についての公案くらいにしか思わない悪寒。
というか、南京大虐殺を認めないウヨクは(・A・)イクナイ!!よねえ〜なんて納得しそうでウンザリする。
違うのだ。
ワイダはいま自分が信じていることを、疑えと言っているのだ。
つまりこの場合、ウヨクの言っていることが正しかったら?と想像力を働かせろという教訓になるのだ。
北朝鮮の犯罪について語ると気が狂ったように日帝の犯罪をわめき立てるニッポンサヨク
ちょっとでも日本に有利、中朝韓に不利なことは|(-_-)|キコエナーイになっているサヨク
あんたに突きつけられているのだよ。
政治を考える前に、真実と向き合え!
 
・・・しかし・・・それができるサヨクは日本にいるんだろうか・・・