ハプスブルク王家

 
冷戦が終わったとき、堀田善衛が「あたらしい中世」と言ったのを印象深く覚えている。
EUはヨーロッパキリスト教社会の復活だし実際EU官僚はEU貴族と揶揄されている。
対ロシア軍事同盟であるNATOにトルコは入れても、クリスチャン同盟であるEUには入れてもらえない。
この伝でいけばEU大統領はEU皇帝=神聖ローマ帝国皇帝なわけだ。
よく知られるとおり神聖ローマ皇帝は基本的に大貴族の選挙で選ばれたわけだからたしかに構図は似ている。
じゃあ神聖ローマ帝国ってなんだ?っつうと、要するにゲルマン人のくせにローマ皇帝を自称したものだ。
もちろん本来のローマ帝国はラテン人しか皇帝になれない。
だから西ローマ帝国末期にユリウス・ネポス皇帝を追放したゲルマン人オレステス将軍は自らは帝位につけずロムルス・アウグストゥスを皇帝としたのだ。
でも追い出されてもユリウスは生きているのだからオドアケルも「東」ローマ皇帝もそれを認めていない。
だから西ローマ帝国滅亡はユリウス・ネポスが死んだ480年という説の方がスジが通っている。
ああ、それなのに。
ローマ教皇はフランク氏の忠臣?シャルルマーニュローマ皇帝に推戴した。
ゲルマン人である段階ですでにおかしいだろ(゚Д゚)ゴルァ!!
そもそも教皇が皇帝を任命するっつう事態自体がこのとき初めてだから。
当然本家ローマ帝国を自認する「東ローマ帝国」は認めない。
でも外野がなんといおうとフランク族の統領という意味はある。
征夷しなくても征夷大将軍が源氏統領の位階として受け継がれてゆくのと同じ感覚だろう。
だもんだから、代々のフランク氏統領はローマ皇帝( ´,_ゝ`)プッを称したわけです。
  

  
ところが1250年、「ローマ皇帝」フリードリッヒ2世が教皇と抗争中に死ぬと、次の皇帝がきめられなくなってしまった。
四半世紀にわたる大混乱。
コリゴリしたドイツ諸侯は談合して皇帝を決めることにした。
そうして1273年に擁立されたのがスイスあたりの無力な小領主だったハプスブルク伯爵家なわけだ。
統一のために弱小貴族を担ぐってのは、国連事務総長は弱小国からしか出さないっていう常任理事国方針と同じですね。
(喜んでる場合じゃないぞ>韓国人(笑))
で、それから1806年まで続いた新しい「ローマ帝国」を「神聖ローマ帝国」と呼ぶわけです。
よって以降のヨーロッパの歴史はハプスブルグ家を中心に描写すると理解しやすい。
で、このムック本ではその辺のことが簡便にまとまっていてお勧めです。
ヨーロッパ史のグチャグチャにうんざりしているあなた、是非読みましょう。(^_^)
    
ところで、批判的に見れば神聖ローマ帝国はもともと教皇領であるローマを含んでいない。
帝国といっても象徴的なものだから一枚岩じゃないうえに、西フランク王国=フランスはハブにされている。
フランク族の統領という主旨から言えば「ローマ皇帝」位はフランスが引き継いでもおかしくはなかったのだからフランス王は不満でしょう。
ベルサイユ宮殿とか行くと古代ローマ皇帝の彫像と連続してフランス王のが並んでます。こっちがローマ皇帝嫡流だ!と言いたいのでしょう。(笑)
これが独仏対立のひとつの起源だし、ナポレオンが突然皇帝を自称した理由でもある。根深いですねえ〜ψ( `∇´ )ψ
フランス人のヴォルテールが言った「神聖でもなければ、ローマでもなく、そもそも帝国ですらない」という皮肉は有名です。
他方、神聖ローマ帝国ドイツ帝国=大ドイツという見方からすれば、ドイツのオーストリー併合東方拡大は歴史的に正当化できる。
だからヒトラーのズデーデン併合がなんとなく納得されちゃったわけです。
これを批判するには、国民主義ナショナリズムの時代に無理矢理帝国をつくろうとしたことのアナクロ性を言わなくちゃいけない。
    
帝国主義ナショナリズムは両立しない。
だって日本帝国も中華帝国アメリカ帝国ナショナリズムで鼓舞して侵略したじゃん、という人は浅い。
どの場合も幻想のネイションを強弁して帝国になったのだ。
台湾人・朝鮮人満洲人は日本人ではない。中華民族なんて架空概念だ。アメリカ民族なんてありません。
この帝国と国民国家の相剋が初めて発現したのがナポレオン戦争
そのさなかの1806年に皇帝フランツ2世は矛盾だらけの神聖ローマ帝国の解散を宣言したのだった。
で、オーストリー帝国として縮小立て直しを図ったんだけど、また帝国(笑)
その帝国もやっぱりナショナリズムの高揚の中でWWIで崩壊したのだった。
WWIオーストリー帝国皇太子の暗殺から始まったのは暗示的ですね。
 
しかし、これで話が終わるかとおもったらさにあらず。
ハプスブルグ家の末裔はEUという新しいローマ帝国の貴族として復活しつつあるのだ!
よく知られているようにEUの発案者であるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー(日本名:栄次郎(笑))はハプスブルグ家の貴族だ。
そして本家筋の元皇太子オットー・フォン・ハプスブルグと組んで2人3脚でEUをつくったのだ。
ようするにハプスブルグ家のど根性で欧州復興なったとも言える。
このオットーさんってまだ存命らしいです。
今年97歳。すげえ。
  

この可愛いお坊ちゃんが
   

このお爺さんなんです!
   
でクーデンホフやオットーの息子さん達もEU官僚なんですよ。
だからEU庶民がEU官僚をEU貴族と呼ぶのも的外れじゃないんです。
で11月11日に行われた独仏のWWI合同慰霊にはそんな1200年来の確執の背景もみえるわけです。
 

 
いやあ、歴史ってすごいね・・・
    

王(女王)と皇帝はどう違うか? 皇帝の方が偉い?
その通りだけれども、それだけが違いではない。皇帝にはなれても、王にはなれない場合があるのだ。
ナポレオン・ボナパルトは1804年に元老院の決議によって皇帝に推戴され、12月2日にノートルダム大聖堂戴冠式を行った。
 
戴冠式では、皇帝や王になる人は冠をかぶせてもらうのがふつうなのに、ナポレオンは自分で勝手にかぶった。絵はナポレオンが皇后のジョゼフィーヌに冠をかぶせるところ。真ん中で長い杖をもっているのが教皇。ふつうは教皇に戴冠してもらう。
 
フランス革命は1789年7月14日のバスチーユ襲撃に始まった(この日は日本では「パリ祭」だけど、おフランスでは単にle quatorze Juillet(7月14日)というざんす)。
ナポレオン・ボナパルト(1767-1821)は1785年に士官学校を出て砲兵士官になり、革命後はヨーロッパ諸国を相手に戦って大功績を挙げた。1799年11月9日、ブリュメール十八日のクーデタで独裁権を握り、1804年に皇帝になったのだ。
1793年に処刑されたルイ十六世はフランスの王であった。
ナポレオンはなぜ王ではなく皇帝になったのか? 皇帝の方がいいからといって選んだのではない。王にはなれなかったのだ。
 
ルイ十六世はブルボン家の出で、フランク族の王家につながる血筋である。
フランク族の王は神の子孫であった。
日本の天皇天照大神の子孫なのと同じだ。
キリスト教になってからはもちろん「神の子孫」を自称できなくなったが、「王権神授説」は王家の血筋と無関係ではないだろう。
 
そこへ行くと、ナポレオンはコルシカの馬の骨である。フランス人でさえなく、本名はブオナパルテというイタリア人だ(ボナパルトはフランス風に改めた名字)。
フランス人が王(=一族の長)として仰ぐことはできない。
ナポレオンのカリスマは彼を皇帝にしたが、王にすることはできなかった。
ヨーロッパで初めて皇帝になったのはローマのアウグストゥスであったが、彼も王位は具合が悪いから避けたようだ。
  
TITLE:翻訳blog: 2008年10月
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