日中戦争 戦争を望んだ中国望まなかった日本

  

日中戦争−戦争を望んだ中国 望まなかった日本

日中戦争−戦争を望んだ中国 望まなかった日本

 

  
「「日中戦争は日本の侵略戦争だった」―この言説の呪縛から解き放たれるときがきた。」というオビが付けられている。
11月7日初版。実にタイムリーな本だがべつに田母神論文とリンクしているわけではない。初出は”Voice”=PHPだ。
しかしこの本の価値は主張そのものというより、現役中国知識人による日中戦争論であるということだ。
もちろん共産党に占領されている中国に言論の自由はなく、著者の「林思雲」はペンネームである。
共著の形をとっているが実質的に林思雲の著作である。北村氏は翻訳と解説を担当している。
  
日中戦争は中国側から開始された、と言えば日本ではウヨクと思われる。
ところが中国人の側も、中国人の自尊心から、中国軍が日本軍に攻撃を仕掛けたというのだ。
それはパリ不戦条約違反であるという認識が林氏にあるのだろうか?
おそらく林氏は知識としてはわかっていても「反植民地闘争」だから正当なので無問題と思っているのかもしれない。
日中戦争は中国によって開始された、ということは正々堂々日中相互の共通認識となった。
この意味は大きい。
そしてそのような中国の行為を認めるものは、条約よりも攘夷が大事という前近代人である。
   

序 章 国際政治と戦争;北村
第1章 日中戦争に至る歴史的背景;北村
第2章 日中戦争と中国;林

 二○○六年の八月十三日に放映されたNHKの「放送スペシャル」―日中戦争―なぜ戦争は拡大したのか―は、戦争拡大の原因を日本の主戦派の責任に帰結させている。まるで中国側には、何の関係もなかったかのようである。
 このように、自ら進んで戦争責任を負おうとするのは好意なのかもしれない。しかし中国人から見ると、このように片方だけに戦争責任を求める論法には傲慢さが含まれている。すなわち、日本を日中戦争の主導者とみなし、日本が戦争を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば拡大させぬことができたのであり、戦争の方向は日本の意志でコントロールできたというものであるが、自発的に進んで戦おうとした中国人の意志が軽視されている。このような見方は当時の実情に符合しない。
 実際には当時の日本は、決して戦争の方向をコントロールしていなかった。中国側において自発的に日本と戦おうとする意志が高まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくなくても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう。
 事実として、日中間の大規模な戦争が開始された本当の発端は、一九三七年の八月十三日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、正しく中国側から仕掛けたのである(この日、蒋介石は上海に駐屯していた五千人余りの日本海軍特別陸戦隊に対する総攻撃を命令した)。
[p94-95]

第3章 日中戦争と日本;北村
第4章 日中戦争と中国社会;林

 「愚民論」とは何なのか。中国には「愚昧」という言葉がある。ごく普通に使われているが、農民はこの言葉で形容される。
 孔子は古代の最も有名な思想家であるが、知能の高低を基礎にして人間を三種類に分類できると考えた。「生まれながらに知る者」、「学んで知る者」、「学んでも知らぬ者」である。絶対多数の民衆は「学んでも知らぬ者」なのであり、これらの民衆は本来の知能に欠陥があるため支配階級になる資格はなく、被支配階級として「生まれながらに知る者」と「学んで知る者」に従うだけである。彼らは、士大夫階級が作ってくれた生活規則、道徳、規範、法律法規に従って生活する存在である。(略)
 古代に限らず近代の革命家たちも、愚民観を抱いていた。孫文は近代革命の父であるが、彼は孔子が人間を知能の高低に基づき三種類に分類したのに賛成であった。(略)
 エリートを重視し民衆を軽視する愚民思想は、中国の軍隊にも反映されていた。
[p125-126]
1.日中戦争中の八年間の壮丁の総人数は、役1405万人である。
2.日中戦争中の国民党軍の戦死者は133万人、失踪者13万人、病死者42万人、逃亡者32万人。このほか50万人が日本軍に投降し、偽軍(日本の傀儡政権の軍隊。特に汪兆銘政権の軍隊をいう)に編入された。
3.戦争開始時の国民党軍の人数は252万人。
4.戦争終結時の国民党軍の人数は422万人。
上記の数字をもとに、死亡した壮丁の人数を計算すると、以下のようになる。(略)
(252万+1405万)−(133万+13万+42万+32万+50万+422万)=956万
となる。そしてこの956万人は、おそらくは徴兵の途中で死亡したのである。
[p142-143]

第5章 中国社会を変化させた戦争の力学;林+北村

 日本軍は大部分の都市を占領したが、かえってこれが日本軍の重い負担となった。日本軍には、都市の住民を飢え死にさせない義務があったからである。(略)
 中国の農民は国家の政治には無関心であり、本来は日本軍に抵抗する考えはなかった。ところが日本軍が農村から食料を強制的に挑発したので、やむをえず立ち上がって反抗したのである。
[p148-151]

第6章 日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)へ;北村
第7章 中国人の「歴史観」 ;林+北村

儒教思想の核心には日本でもよく知られている「忠、孝、礼、仁」という徳目の他に、もう一つ重要な徳目がある。それが、「避諱」である。(略)
 なぜ、偉大な人と高尚な人のために隠さねばならないのか。これは、中国人の独特の世界観に関係している。西洋における平等の観念とは反対に、中国人は昔から、人と人とは不平等であると考えてきた。この不平等は才能における不平等ではなく、道徳水準の不平等である。
 中国人は道徳水準に基づき、人間を二種類に分類した。「君子」と「小人」である。(略)
 儒教は人々に対し、偉人や賢人にたよって国家を管理すれば長い安定がもたらされ「乱世」の出現を避けられる、と教えてきた。
 しかし偉人や賢人は神ではない。彼らも誤りを犯す。彼らの道徳性により社会の安定が保たれているのであれば、偉人や賢人が誤りを犯せば社会の安定は動揺する。したがって社会の安定を保とうと思えば、人々はできるだけ彼らの誤りを隠し、その威信を保全しなければならない。
 偉人や賢人の過ちを隠せば彼らの威信が保全できるのであれば、彼らの功績を誇大に讃えてその威信を高めるのも、国家の安定を保障する一つのやり方である。したがって「誇張」と「避諱」とは、同質の行為の両面である。(略)
[p208-210]

これを深刻に反省し、「動員先制開戦は文明に対する犯罪だ」と合意したのが国際連盟であり、パリ不戦条約であった。日本は満州事変までは国際連盟常任理事国である。その国際連盟は、戦争に代る外交手段として、経済制裁を認めていた。動員先制開戦プログラムがもたらす急速確実なメガデスに比べたらば、経済封鎖で他国民をいためつける方がずっとマシであり、許されると、日本政府も合意していたのだ。
 日本が1941年12月にマレー半島真珠湾とフィリピンで実行したことは、どこから見ても動員先制開戦に他ならない(予備役動員は同年7月からの関特演でほぼ達成)。だから日本は12月8日の時点で「パリ不戦条約」という天皇の名によってなした国際的な約束を破り、紛れもなき侵略者になり下がった。
 ただし、日本は自らが侵略者となる前に、外国からの明白な侵略を受けていた立場でもあった。
 日本より4年も早く、パリ不戦条約を堂々と破り、日本に明白な侵略戦争をしかけてきた外国がある。それが、蒋介石が束ねるシナであった。シナも、やはりパリ不戦条約を批准していた。
この蒋介石ならびにシナが、戦後世界においてなぜか侵略者とは認定されずに、逆に日本がシナに侵略したかのように思われてしまっていることの当初の原因を作ったのは、近衛文麿および広田弘毅という二人の愚かな文民コンビだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/tero19632001/26276555.html