ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

   
こんな大部の本にするほどの内容か?というのが正直な読後感。
前著『動物化するポストモダン』の応用編。

個別のラノベ/ゲームの分析は兎も角、フレームは極めて単純。
    
 (自然主義的)文学   ←(自然主義的)リアル   ←(透 明)←|
                                  |(現実)
 (ラノベ・ゲーム的)文学←(まんが・アニメ的)リアル←(半透明)←|
     
で、ラノベ的文学はデータベース消費=コミュニケーション消費になっていると。
さらに事故言及的コミュニケーションによって「現実」を示唆すると。
  
言いたいことはわかるけど、それって新しいことなんだろうか?
あと、政治的言えば、この構図は自足的に完結しちゃうので「現実」側から政治性を刺激したい人にとっては苛立つものだ。
これが大塚―東論争に繋がるんだろうね。
漏れは大塚の因縁は不十分とは思うけど、東の自己完結的図式はいかにもネオ赤的というか、それもやっぱり不足だと思う。
外部たる現実(リアル)とは何か?というのが焦点になるよね。
 
追記)
しかし、エロゲ的リアルってハーレクインとどう違うんだ?あんまし新しくもないのではないか?