靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書 652)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖國神社戦没者追悼施設ではなく、英霊顕彰の施設である。」
たしかに彼のいうとおりこの簡単な事実を認識していないひとが多いと思う。
そういう意味で事実認識についてはほとんど漏れは彼と共有している。
しかし結論が違ってくるのだ。
  
戦没者追悼式典で『全国戦没者之霊』という位牌?をおったてているのはナゼ政
治問題化しないのか?
あるいは伊勢神宮与野党政治家がこぞって初詣するのはオッケーなのか?
これはプロ市民に聞きたい疑問なのだが。
 
小島さんの揶揄はちょっと辟易させるところがある。
いわく、「英霊」なんて中国古典から採った言葉、いまの大嘗祭は所詮江戸時代
に復興したもので歴史でも伝統でもない、記紀神話は民族神話じゃなくて天皇
関して7世紀に捏造されたもの、云々。漏れなんかからすると聞き飽きたサヨク
テンプレ言説なので、なんだかなぁ〜って感じだ。あんまりことの本質と関係な
いし。
 
そもそも「靖国史観」ってなんだ?と思ったら、要するに明治維新マンセー史観
のことらしい。そういう意味では司馬遼太郎こそ現代版靖国史観の継承者だ。か
つて○○らが「自由主義史観」を唱道したとき、なにかと思ったら司馬遼太郎史観
で近代日本を全肯定、ついでに司馬が否定した大東亜戦争も肯定、というものだ
と知って、逆に納得した覚えがある。つまり漏れは反司馬で江戸幕府評価の立場
だが、それは反靖国に直結しない。なんだか児島氏は直結していると考えている
ようで、それが不思議。そこにロジックがつながっていないのである。
そもそも小島氏はなまじ経緯・理論に詳しいがゆえに、昭和期の軍人がモダンの
人でありつつ靖国に祀られることを受け入れた心性を捕らえ損ねていると思う。
そして彼らが望んだこと自体が出発点な漏れは、それを否定できる論理に出会っ
たことがない。経緯や矛盾は副次的なものなんだよ。それがわかってない。
「国家のためじゃなくて天皇のため」だという批判に対しても、昭和20年以前
に国家と天皇をわける考えは事実上意味がないし、国民国家自体が皇室制度と一
体で立ち上がった経緯から、心情的には兎も角、形式的には仕方ないだろうと思
う。それに「天皇のための殉職オンリー」にこだわるなら戦後の「国民主権の日
本国」での殉職者を合祀すれば矛盾はなくなっているわけで、すでに自衛官合祀
で実現している。
「国家のために死んだのに反政府なので祀られないのは不当」といっても、国家
としては公職殉職者限定の線引きは当然じゃないか?主観的なことを言い出せ
ば、それこそ内ゲバで死んだ革マル派活動家も主観的には「(階級)国家日本」
に殉じたなんて話になるわけで現実的じゃないだろ。こういうのは「誰が国家の
ために死んだといえるのか?」っていう神学論争を呼んで短期的には割り切らな
いとどうしようもない。まあ、もっとも同じ悩みは世界中の宗教が抱えていると
もいえるわけで、ロシア共産党カソリック教会みたいに、どっかの時点で名誉
回復して「列聖」を行ってもいいと思うけどね。