中国という国はあるのか?

      
そもそも中国って?というテーマは日本のちょっとトンガッタ文明論者なら語れるものだが、台湾政府自体が語っていることに驚いた。「中華民族非在論」は岡田英弘の発見であろう。それを対抗軸に据えたのが黄文雄ら台湾ロビイストであろう。しかし台湾って終戦時600万人の人口があり、そのほかに日本軍と疎開してきた沖縄県民など日本人が50万人くらいいたらしい。数年後日本人が出てゆくと同時に30万人くらいの「中国人」が進入してきていきなり3万人虐殺したのだった。
                      
余談だが、台湾にいた日本人数には謎がある。それは沖縄の疎開者がよくわからないのだ。沖縄は戦前60万人の人口があったという。沖縄戦では10万人が亡くなった。それが昭和25年には90万人となり、なぜか昭和35年でも90万人くらいなのだ。いくらベビーブームがあったとしても増えすぎだし10年間横ばいというのもおかしい。どうも30万人ほどの人が台湾に疎開、居住していたということみたいなのだ。(公式には昭和19年に10万人疎開計画があったが実際は6万人くらいしか疎開できなかったことになっている。)60−10+30=80万人が終戦直後の人口で、以来微増で90万人ということらしい。
    

許世楷駐日代表が講演で台湾の国連加盟問題を語る
                       
台北経済文化代表処の許世楷・駐日代表は7月20日、東京都千代田区の日本プレスセンターで開かれた(社)日本外交協会の会合で、「私から見た日本」をテーマに講演し、台湾が推進する国連加盟や、台湾から見た日本外交についての考えを述べた。
                       
許代表は、今年台湾が国連の「女性差別撤廃条約(女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)」の締約国申請をしたとき、パン・ギムン(潘基文国連事務総長が国連第2758号決議を引用して「台湾は中華人民共和国の一部」と強引に解釈して台湾の申請を却下した事例を挙げ、「このような解釈を下した事務総長ははじめてだ」と批判した。
                       
そして「台湾は国家であるかどうか」について、1972年以前の日本は台湾を国家として承認していたことを挙げ、「国交を持たなくなると国でなくなるのか? 日本と国交がなくても(台湾は)国である」と強調した。
                          
許代表は、1972年以前の日中交渉において、中国が「台湾は中国の一部」と認めるよう要求していたが、日本は「理解し、尊重する」としただけで、「承認」したわけではないと指摘し、「どこまで尊重するかは日本が自主的に決められる」との認識を示した。
                               
続いて許代表は、台湾は1990年代の民主化後、自由、民主主義、人権、法治、市場経済等、日本と共通する社会的価値観を持つようになったことを挙げ、「台湾は独立した国として存在するほうがいいのか、中国に併合されたほうがいいのか、どちらが日本の国家利益になるか、国家の安全の観点から考えるべきだ」と述べた。
                               
近年、雑誌のアンケート等で台湾人の「一番好きな国」に日本が選ばれていることについて、許代表はその理由として、台湾からの観光客ノービザ措置や、先日日本の国会を通過した台湾の運転免許証を日本で認める法案等、台日関係が「平等互恵」「相互承認」の方向に進んでいる点を挙げた。また、良好な台日関係の基礎として、台湾と日本は地理的に近く、歴史的にも深いつながりがあることや、1990年代からの台湾の民主化によって日本と社会的価値観が共通するようになったことが大きいと指摘した。
                           
台湾の民主主義の定着について、許代表は「相当成熟している」との見方を示し、昨年総統府前で連日繰り広げられた陳水扁総統の辞任を要求するデモのときでも、一人も死者や重傷者が出なかったことを挙げた。
 
許代表は、1959年の日本で安保反対街頭デモを見たとき、当時の首相を「殺せ!」と叫んだ者もいたが問題にもならなかったことに衝撃を受け、当時の台湾ではデモすらできず、「早く台湾も日本のように自由になってほしい」と感じたことを明かし、中国からの観光客がテレビにかじりついて台湾の総統府前デモを見ていたことについて「その心境が推測できる」と述べた。
 
そして許代表は、中国や北朝鮮は選挙がないが、台湾は規定通り選挙が行なわれており、治安、経済力、民主化等から見て、「台湾は東南アジアの中で最も安心して行ける国である」とアピールした。
 
今年5月の世界保健機関(WHO)年次総会で、日本が台湾のWHO加盟案に反対票を投じたことについて、許代表は「今後もし鳥インフルエンザが発生した場合、被害は台湾だけにとどまらず、日本や中国も危ない」と指摘し、世界の防疫体系に穴があることの危険性を強調した。
 
国連加盟について、台湾政府が従来の「中華民国」の国連復帰を求めるのではなく、「台湾」として新しく加盟申請する方針を固めたことに関して、許代表は「すべての点で台湾は国家であるが、中国だけが違うと主張している」と述べ、台湾が国連に加盟できないのは中国による台湾へのイジメであると指摘した。
 
許代表は「イジメがはじまったら、反対しなければならない。黙っていてはいけない。同調してはいけない。(台湾の国連加盟に)反対はイジメに加担、棄権は知らん振り、賛成はイジメに反対ということだ」と述べ、「日本の安全から見て、民主的な国を独裁側に押しやってよいのか。イジメに加担してよいのか。国交がないからといって国がないわけではない。台湾は国であるという事実を見てほしい」と、日本に対して理解を求めた。
 
許代表は、「領土問題には、その上に住民がいるものと、いないものがある」とし、「住民がいる場合は、住民の意思に問うべきで、周りの強国が何を考えているかによって決めることはできない」との考えを示した。
 
また、台湾が「中国」の一部かどうかについて、許代表は「『中国』という国はあるのか? 万里の長城は何のために作ったのか?」と指摘し、清国は外来統治であったことや、いわゆる「中国」の領土は時代によって異なることを説明し、「清国と中国は違う」と強調した。さらに、日本の敗戦時、蒋介石の代表が台湾に入ったのはマッカーサー指令による占領軍であったとし、同様にソ連満州を占領したという例を挙げた。
 
台湾が国連に「新規加盟」の申請をすることについて、許代表は「(申請後)事務総長は安保理に回さなければならない。安保理で通れば勧告となる。中国が反対するが、安保理において利害関係国は投票してはならないことになっている」と指摘し、中国等の妨害で規定通り処理されなかった場合、国際司法裁判所の判断を仰ぐ可能性も排除しないことを明らかにした。
 
最後に許代表は、純真な子どもが大人の思惑にとらわれず「あれは裸だ!」と事実を突いて騒然となった「裸の王様」の物語に「中国の主張」を例え、「事実」を見落とさないよう求めた。
                
《2007年7月24日》

日本の台湾への「功」は?
               
最近、台湾の歴史教育で、日本植民地時代の「功罪」が論じられている。
なかでも国民党の馬英九・主席(台北市長)による、日本の「罪」に対する非難はかなり激しい。
そこで「罪」に対置する「功」について具体的に調べてみた。
                           
終戦により台湾省政府が接収した日本の「台湾残置資産」は次のとおり。
終戦翌年の1946年に台湾省政府が発表した。土地評価額は除く。
建物のほかに流動資産を含む。
                        
 公的機関  29億3850万円
 企業財産  71億6360万円
 個人資産   8億8880万円
 三者合計 109億9090万円
                       
終戦前年の1994年の日本の一般会計の国家予算は198億7195万円。
日本が台湾に残した資産は、当時の日本の全国家予算に匹敵するといってよいでだろう。
日本の国家予算は人口1億人に対する戦時下の膨張予算である。
当時の台湾の人口は約600万人。
人口比からみると、この日本の残置資産の価値はたいへんなものだ。
                             
この資産を基盤にして、戦後の台湾の経済はスタートを切ったのである。
このことが、その後の台湾経済の発展を有利にしたことは否定できない。
その一方で、この膨大な資産を中華民国政府と台湾省政府それに国民党の三者が分捕り合戦をしたことはよく知られている。
これが、いま台湾で問題になっている終戦時の国民党による日本資産の「不正取得」の実態である。
                    
もう一つ日本の残置資産がある。
上述の建物などの「有形資産」に対する「無形資産」である。
1988年に日本の文部省調査団が、台湾の企業と個人を対象に調査した結果によると、台湾の経済発展の歴史的要因として、次のものをあげている。
                          
 (1)長期にわたる基礎教育の普及………………47.4%
 (2)日本植民地統治後の工業化基盤……………22.6%
 (3)日本植民地統治下の近代農業の発展………12.6%
 (4)早い時期からの近代的社会制度の導入……12.1%
 (5)清朝末期以来の商業的農業の発展基盤………2.6%
                         
(1)(2)(3)は、日本が残した無形の「社会資産」で、台湾人がこれを高く評価していることが明らかである。
この無形資産と有形資産との相乗効果によって、今日の経済大国「台湾」があるといってもよいだろう。
このほかに「教育勅語」を根幹とした倫理と道徳の涵養がある。
私が住んでいた台湾では、順法精神はもとより道徳心の高かったことを思い出す。外出に「戸締り」は不要だった。
                            
ただし、これらの「功」を日本は台湾人のために築ずいたのではなく、日本のために行ったことを忘れてはならない。
日本の台湾統治は、南方における一大工業地域を目指しての植民地政策を基礎としていた。
欧米が植民地を、原材料生産と消費拡大を目的にしてきたのとは異なっている。
その結果が「功」となって残ることになったのである。
                             
これを台湾の人が「評価」しても、日本人が「評価」を主張することは正当とはいないのではなかろうか。
とはいっても、この点の理解が感情的に難しいところであろう。
                             

●『祖国の軍隊』来る!
                        
 1945年10月17日、台湾北部の港町・基隆に中華民国正規軍の第62軍、第70軍の将兵1万2千が到着しました。
                  
 まだ台湾に駐留していた日本軍の動きを恐れて、アメリカ軍に護衛されていました。
                  
 しかし、日本軍は『終戦詔勅』に従い、一切の軍事行動を停止していました。
                    
 台湾人にとって、『軍隊』とは、口を引き締め、前方をにらみ、一糸乱れず、威風堂々と行進する日本軍でした。
                  
 ところが、基隆の港で、台北の街角で、台湾人が見たものは、軍隊でなく、浮浪者の群れでした。
                   
 傘を背負ったり、天秤棒をかついだり、活きた鶏を持っている兵がいました。
                  
 軍靴の代わりに、ぞうりをはいたり、素足の兵がいたといわれています。
                   
 しかも、私語を交わしながら、だらしなく歩いていました。
                  
 最初は、爆竹を鳴らし、歓呼の声を上げていた台湾人は、やがて失望の表情を浮かべます。
               
 中国には、『良い鉄は釘にならない。良い人は兵隊にならない』があります。
                  
 日本人は『尚武』(武をとうとぶ)ですが、中国人は、武より文をとうとびます。
                   
 つまり、『尚文』です。
                   
 『祖国の軍隊』が到着すると、これまで保たれていた治安が、一気に悪化しました。
                   
 兵士による、無銭飲食、略奪、暴行が頻発したのです。
               
●再び、国共内戦
               
 もし、中華民国政府が、台湾を重要しているならば、最精鋭、第一級、規律のすぐれた部隊を送るべきでした。
               
 しかし、中華民国政府には、『台湾人は日本の奴隷教育を受けた二級国民』という認識があったのでしょう。
             
 日中戦争では、まがりなりにも、国民党と共産党は協力していました。
              
 しかし、日本という共通の敵がなくなると、国民党と共産党の指導権争いが表面化し、内戦の再開が危惧されていました。
              
 国民党は、共産党に備えるためには、最精鋭部隊を中国大陸に配置しておかなければならなかったのです。
                
●日本人、台湾を去る、全てを残して
                  
 1945年10月25日、台北公会堂で、最後の台湾総督、安藤利吉大将が、国民政府軍の陳儀将軍の差し出す降伏文書に署名しました。
                  
これにより、台湾総督府の行政権が、中華民国に引き渡され、法的には疑問があるものの、台湾は中華民国の主権下に置かれました。
                  
 この10月25日は、現在の台湾では、『光復節』という名の祝日です。
                  
 当時の台湾には、約49万の日本人がいました。
                 
 台湾総督府の官吏、日本企業の社員、家族、そして台湾駐留の日本軍の将兵でした。
                  
 彼らは、わずかな身の回りの品だけを持って、日本へ引き揚げなければなりませんでした。
                  
 長年にわたり台湾で築き上げた財産をすべて残していったのです。
                  
●食と職を奪われる
                  
 台湾総督府の行政機構、民間企業、個人の財産は、当時の貨幣価値で110億円と算定されています。
                  
 その当時の日本の一般会計予算歳出は2140億円でした。
                   
 台湾の日本資産のすべては、中華民国政府に接収され、国営企業、省営企業(台湾省が経営する企業)となりました。
                           
 それらの企業の上級職は、すべて中国人が独占しました。
                           
 台湾人には、下級職が与えられたにすぎませんでした。
                          
 多くの台湾人は、これまで勤務していた職場から追われました。
                             
 600万の人口に対して、失業者は30万に上りました。
                       
 1946年、中国大陸で国民党と共産党の内戦が激化すると、大陸への食糧の供給が台湾に求められました。
                      
 それまでの『穀倉地帯』台湾から、あっという間に食糧が姿を消しました。
                     
 食糧が根こそぎ、大陸へ持ち出されたのです。
                 
 そして、代わりに大陸からもたらされたものは、『インフレ』でした。
                
 失業とインフレ、このふたつの災いによって、台湾人の中国人に対する恨みは、頂点に達していました。
               
 そして、1947年2月27日夜、台北市のある街角でのできごとが、『228事件』の導火線となったのです。
           
http://www.melma.com/backnumber_160538_3586557/