竹内宿禰

      
竹内宿禰って不思議だ。
        
垂仁天皇伊勢神宮)  11代:BC69年即位

景行天皇日本武尊

成務天皇(国造県主)

仲哀天皇神功皇后

応神天皇(和爾吉師)

仁徳天皇(土木工事)  16代:AC399年崩御
       
の6代の天皇に仕えたという・・・謎の時代のキーパーソン。
天皇より活躍しているし。。(;´∀`)
しかし竹内家にせよ伊福部家にせよ、日本ってほんとにものもちの良い国だなあ〜(w
      

竹内宿禰は建内宿禰とも書く。
     
古事記では8代孝元天皇の子、比古布都押信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)と、木国の造の祖、宇豆比古(ウヅヒコ)の妹、山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を父母とすると、
記載されている。
日本書紀では8代孝元天皇の皇子、彦太忍信命(ヒコフツヒオシノマコトノミコト)の子、
屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)と、紀直(マノアタイ)の遠祖
菟道彦(ウジヒコ)の女、影媛(カゲヒメ)を父母とすると、記載されている。
     
しかし、竹内宿禰は、12代景行天皇〜16代仁徳天皇時代の代々の天皇に使え、三百年近く生きたとなっている不思議な人物で、生い立ちについて定かではない。
これは、次の代が先代の名を受け継いだためであると考えられている。
この竹内宿禰を祖とし、竹内家は代々天皇家に仕えていた。
新羅征討に付いて意見が合わなかった14代仲哀天皇神功皇后と謀り、熊襲の仕業に見せかけて殺した説や、成務天皇との同一人物説が有る。
景行天皇の時蝦夷地視察、神功皇后三韓遠征、忍熊皇子反乱討伐などに参加。
     
URL:http://www.akimatsuri.net/hito03.htm

巨勢はコセと読む。珍しい地名である。後年のあるとき興味ある文章に出会った。相撲の開祖として知られる竹内宿禰(たけうちすくね)の子供たちが蘇我平群、葛城、紀、巨勢という姓を名乗り分家した。巨勢一族は一時権勢を誇ったと言うのである。六世紀の初め武烈天皇が世継に恵まれず、天皇家が血統断絶の危機を迎えたとき、応神天皇の五代後の孫で北陸地方にいた大王が探し出され天皇に担がれた。この謎の大王、継体(けいたい)天皇を擁立したのが巨勢男人(こせのおひと)と言われる。また聖徳太子の忘れ形見の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を暗殺した六人衆の中に蘇我蝦夷(えみし)や入鹿(いるか)に混じって巨勢徳太(こせのとこた)の名が見える。ついでながら、この紀姓の数代後裔から土佐日記で有名な紀貫之が誕生し、巨勢が転じて古瀬や小瀬の地名や人名が生まれたそうである。現在、奈良県御所(ごせ)市のJR吉野口駅の近くに椿の名所として知られる巨勢寺跡がある。御所は巨勢から転じたと興三さんは信じている。北に山一つ超えれば高松塚がある。
     
TITLE:私本 芦屋の浜のつれづれ草
URL:http://homepage3.nifty.com/sumikozo/sakusaku/2_1.htm

竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。
竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々実子に受け継がれ、現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。
この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。
巨麿の竹内家が、越中婦負郡神明村を拠点とするのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中射水郡二上山を祭祀拠点としている。また全国の二上山でも祭祀を行なう。
      
TITLE:南朝竹内文書
URL:http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/nantake.html

竹内宿禰命に子孫は伊福部(いふくべ)氏と名乗り因幡一の豪族として明治時代はじめまで宇部神社の神主を勤め今は東京に住んでおられる。
その45代目の伊福部昭氏は東京音楽大学の学長を務めゴジラの映画音楽を作曲している。
日本海新聞が、伊福部昭氏をインタビューした記事には
         
「先祖が大友家持(万葉集を編集した国司)と飲み会をしていたと思うと感無量です。」
         
と語っておられた。
その伊福部家は、代々朝廷で伊福部と言う食事を司る要職に就き、国府町と朝廷は深いつながりがあった。

TITLE:宇部神社と竹内宿禰
URL:http://www.pleiades15.net/ubejinnjya.html