蒲生邸事件

蒲生邸事件

蒲生邸事件

  
意外に思われるかもしれないが漏れは宮部みゆきの大ファンなのだ
で、この本は「戦前」というのがどういう時代だったのかについて、凡百の歴史書よりよく教えてくれる好著と思っている。
その美点は、下記に引用した一節に集約されていると思う。
つまり、過去を未来から断罪する傲慢さを犯していない
人間を高みから裁かない。限定された生を営む人間への慈しみが貫かれている。
東条英機は無能な秀才官僚だったかもしれないが、個人的な栄耀栄華を求めたわけではなかったことはサヨクですら認めざるをえないだろう。彼は官僚としてよかれと思って精一杯働き、そして失敗し死んでいった。その姿に昭和の戦争を生きた多くの庶民の姿が重なり、心を打つのである。
日本でサヨクが失敗したのは、結局宮部と逆の世界観、特定の人間を悪魔化して糾弾するような傲慢な世界観を日本人は受け入れるほど人でなしじゃなかった、ということなのかもしれない。
  

図書館の写真集で、東條英機の写真を見たことがある。東京裁判の判決の際に撮影された有名なものだ。坊主頭に眼鏡をかけた、ちっとも迫力のない地味な中年の男性だった。耳にヘッドフォンをあて、自分に死刑を宣告する裁判長の声を聞いているのだが、その表情は、冷静を通り越して無関心とも言えるほど、平らに澄み切っていた。
平田がそういう死に方をしたと知った後でも、孝史は東條英機という軍人を憎いとは思わなかった。彼が犯した判断ミスや、懲罰召集のような意地悪な行為や、憲兵を組織的に使った思想弾圧の悪辣だったことや、もろもろの歴史的事件について、以前よりはずっとよく知っている。戦争体験者や遺族のなかに、今でも東條憎しの感情が色濃く残されていることも、知識としては知っている。それをふまえたうえで、別のことを考えていた。
東條英機は抜け駆けをしなかったということだ。少なくとも彼は、未来を見通してたわけではなかった。その場の時代を生で生きていた。その結果間違いもたくさんやったけれど、ほかでもない歴史に対しては、その間違いを言い訳しなかった。淡々と、音楽を聴くようにしてヘッドフォンを耳にあて、死刑の宣告を聞いた。
          
(p672〜673、宮部みゆき著『蒲生邸事件』文春文庫)