中国新聞趣聞〜チャイナ・ゴシップス
なぜ“保守”はアジアの人権・民族問題に関心を寄せるのか
中国の諸問題との関わり方について思う
福島 香織
2011年11月30日(水)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20111128/224572/?mlt
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 当初は1000人ぐらいが集まる大集会になる予定だったらしい。しかし当日、一般席を見た限り聴衆は200人前後で、そのほとんどはおそらくは関係団体の人たちではなかったかと思う。海外からゲストを迎え、それなりの発起人メンバーを揃えた割には、不発ではなかったかと、正直思った。
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 中国やアジアの人権問題や民族問題に対して関心を持って発言する人には、いわゆる右側、保守系の立場の人が多い。取り上げる雑誌もいわゆる保守系オピニオン誌が多い。一般に人権といえばリベラル派を自認する人たちこそが問題意識をもつテーマだと思われる。国内の貧困や人権については左派系の人の活動が目立つが、中国やアジアの人権に関しては保守系言論人の発言の方が多いのだ。
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 2010年にノーベル平和賞を中国の獄中にあって受賞し、中国民主化運動のシンボル的存在となった劉暁波氏について、左派思想史研究者の子安宣邦大阪大学名誉教授が積極的な支援言論活動を開始したのは、むしろ右側の人たちからは驚きだった。

 劉暁波氏支援の会合の場で子安教授にお会いして名詞を渡した時、「まあ、人権問題に右も左も関係ないからな」と言いながら、しぶしぶという感じで対応してくれたのを思い出すに、やはり右派・保守系がやっている中国の人権・民族問題への関わり方とは一線を画したいという思いがあるのだなと感じた。

 子安教授は「中国批判が反中国の右翼とレッテルを張られるようになってきている。そのレッテル張りから脱却し、右であれ左であれ、隣国の現状を日本の知識人に正視していただきたい」という主張ではあるが、左右の学者や評論家が共闘して開いた中国の人権・民族問題をテーマにした会合というのがあったのか、私は寡聞にして知らない。

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 人権や民族問題という共通のテーマで、左派と右派に別れてしまうのはなぜか。
 
 1つには、左派やリベラル派の人たちの間には、右側の人たちが中国の民主化や民族問題にコミットする人たちの「それが日本の国益につながるから」という動機が不純である、という見方がある。 (略)
 
 一方で、リベラル派、左派は「日本の中国侵略の歴史」に後ろめたさがあることから中国に偉そうなことが言えない、という。
 
 中国よりも過去の日本の方が悪いことをしてきた、今の中国の現状については日本にも責任があると思い続けている人もいる。もし中国を批判するならば「徹底的に日本の『過去の過ち』を清算してからでないとできない」「先に『慰安婦問題』や『遺棄化学兵器問題』を解決してからでないとできない」というわけだ。
 
 私は今さらだが「右側の人」と言われている。中国の知識人と名詞交換した時、私の名前を知っている人からは「ああ、右翼ですね」と嫌みを言われることもある。それは元産経新聞の記者で、しかも中国当局が嫌がる、人権・民族問題の記事を結構書いてきたからだ。
 
 しかし、そういう記事を書いてきたのは、私が右派を自任しているからでなく、記者という職業は基本的人権や民主や言論の自由を擁護する立場に立つことが原則だと強く思っているからである。
 
 同時に現実に人権状況を改善する手法としては、例えば欧米のように外交カードとして中国の人権問題を利用することはむしろ支持するし、外交は自国の国益のために行うものなのだから、その外交テーブルで自国の不利になるような歴史観や謝罪を目的なく、こちらから口にしてはならないと思っている。
 
 経済的にも軍事的にも存在感が大きくなり続けている隣国に対し、民族政策や人権問題の改善に努力するように外交や国際社会の場で主張するのは、それが周辺地域の安定・発展に関わる問題であるという認識があってこそ説得力を持つ。私の中では、人として基本的人権擁護の立場に立ちたい、という思いと、日本の国益を重視すべきという考えは矛盾なく並存する。
 
 余談だが、欧米にある中国やアジアの民主化推進や人権組織を支援する基金NGO(非政府組織)などを見ると、出資元が左右を問わず、地元の議会や政府につながっていることがある。資金供与の目的には周辺国の民主化基本的人権擁護が「絶対正義である」という建前と、そういう資金援助を通じて対象国におけるさまざまな情報収集が行えるという現実的な国益を考えた両面があるという。
 
 日本に、政府や議会につながっているその手の基金や民間組織がないのは、人権意識の希薄さもあるが、海外における情報収集をさほど重視していないからかもしれない。そういう現実的な目的を持つ資金源がないので、日本におけるアジアの人権・民族問題に関する集会は本質的なことが伝わりにくく、イデオロギー色ばかりが目立ち、一般の人から敬遠されそうなムードが漂うのかもしれない。
 
 こういうことを、今つらつら考えてしまうのは、日本人の中国への関わり方というのは最近よく聞かれるテーマだからである。
 
 私は日本人にとって中国という国は切っても切れない縁があると考えている。だからこそ、現状の中国に対する批判が、お節介にも口をついて出てくる。そう言うと「日本が中国と関わってきたことが近代の不幸だった」「中国はどんなに関わっても欧米先進国のように共通の価値観は持てない」「中国が変わるわけない」「だから日本は中国とできるだけ距離を置いた方がよい」という反論を受けることがある。
 
 こういう日本人の対中観について、最近読んだ『「壁と卵」の現代中国論』(梶谷懐著、人文書院刊)が分かりやすく整理していたので引用すると、
 
[1]「脱亜論」的中国批判
 
[2]実利的日中友好
 
[3]「新中国」の連帯論
 
の3つに分かれるそうである。私は[3]に当たるだろう。この本でも指摘されているが[3]タイプの、中国の現状を改善させようと期待をもって働きかける人たちには、中国に深入りしすぎて歴史の轍を踏みそうな危うさがある。
 
 私の考えでは、中国という国は関わるまいとしても関わらざるをえない存在感を経済的にも国際政治的にも軍事的にも持っていることは否定できないし、そういう中国に対し実利優先で、日本人が自らを妥協して合わせていくこともよしとは思わない。
 
 関わる以上は中国側とケンカ腰でも求めるべき改善点はあるだろう。問題は距離感である。先に述べたように、人権問題など人としての基本的なテーマを前にしても先にイデオロギー臭がきて、普通の人が関心を持てないようなムードになってしまうことがある。そうなってしまうと、中国の民主化や人権や民族問題に関心を持つ人は「特殊な人」となり、深入りしそうな人はますます深入りし危うくなる。
 
 それを防ぐためにも、日本政府としての中国の民族問題や人権問題、民主化に対する公式見解みたいなもの1度くらい打ち出すことが必要だと思うのだが、どうだろう。それを基準に中国への距離感のようなものを日本人一人ひとりが考えるきっかけになるのではないだろうか、と思ったりするのだ。