普天間第二小学校 造ったのは市

2010年8月19日 沖縄タイムス オピニオン面

普天間第二小学校 造ったのは市

又吉康隆さん=62歳 (読谷村

米軍嘉手納飛行場でB52爆撃機が墜落大爆発したのが1968年11月19日であった。島中が戦争の恐怖に陥り、命を守る県民共闘会議が」結成され、その時に反戦の標語として「命(ぬち)どぅ宝」がうたわれるようになった。
米軍基地に対する恐怖が最高潮に達し、基地撤去運動が一番昂揚した時期が1969年であったし、ベトナム戦争の最中であったあのころの米軍基地の騒音や危険性は今の比ではなかった。
ところが、同年に「普天間第二小学校」は開校したのだ。普天間第二小学校を作ったのは、米軍ではない。当時の宜野湾市長と市議会である。
昔、米軍は普天間基地から数百メートル以内は危険地帯として)黙認耕作地にしていた。宜野湾市は、開放した黙認耕作地に普天間第二小学校や国際大学や住宅をどんどん造っていった。普天間基地を世界一危険にした責任は、宜野湾市にもある。アメリカだけを非難するのはおかしい。
 
筆者註:
★1968年⇒沖縄返還が1972年だからその4年前の米軍統治下の時代。
★黙認耕作地 ⇒ 駐留米軍施設内の農耕地。基地内への出入りが比較的自由な場所で、基地内ではあるが住民がそこで農業をするのを黙認していたのが始まり。1959年、高等弁務官布令20号「軍用地の一時使用許可」として正式に米軍が認可。
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