全共闘、ドカチン、牛丼

 
おもしろすぎる。。。
 

全共闘、港湾労働、そして牛丼
小川社長インタビュー[1]発想の原点「資本主義のもとで貧困をなくす」
日経ビジネス9月20日
外食日本一ゼンショー、初めて明かす反常識経営
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100917/216295/

 24兆円を誇る外食業界において今期、その勢力図が大きく変わろうとしている。長年トップを走っていた日本マクドナルドホールディングスがその座を追われ、代わりにトップの座に就くのが牛丼「すき家」を中心に約20の業態を展開するゼンショーだ。
 ゼンショーはこの10年で売り上げを20倍に伸ばし、今期3686億円の売り上げを達成する見込みだ。その原動力となったのは生産効率への飽くなき執念、そして社員、パート、アルバイトまでをも1つにまとめ上げる統率力。
 こうした仕組みを作り上げたのは、革命家出身の経営者、小川賢太郎社長だ。小川社長にとって日本一は通過点に過ぎない。あくまで狙いは“フード業世界一”。
 日経ビジネス9月20日号の特集「外食日本一 ゼンショー」では、その経営の仕組みの詳細に報じた。その関連インタビューとして、これまであまりメディアに出ることがなかった小川社長に秘めた思いを聞いた。
(聞き手は飯泉 梓=日経ビジネス記者)

小川賢太郎(おがわ・けんたろう)氏
1948年7月石川県生まれ、1978年吉野家入社、その後退社。1982年ゼンショー設立(写真:村田和聡、以下同)

―― 会社の経営理念には「世界から飢餓と貧困を無くす」とあります。こうした思いはずいぶん前から抱いていたのでしょうか。

 1968年、大学に入学した当時、ベトナム戦争が激化していた。米軍が毎日50万人の軍隊をアジアの国に送りこんでいた。日本の基地からも毎日B52爆撃機をガンガン飛ばして爆撃していた。つまり、資本主義が世界を席巻していたのです。
 だが、その一方で世界の3分の2は貧困状態に陥っている。世界の中で矛盾が起きている。そう強く感じたわけです。
 矛盾は日本でも生じていた。戦後復興は軌道に乗り、経済成長を続けてきたけれど、その歪みが随所にあった。企業が成長した陰では、熊本の水俣病や富山のイタイイタイ病など全国で色々な公害が問題になっていた。職場では労働災害がどんどん増えて、現場で働いている人が高度成長期の犠牲になっていた。
 世界の若者は矛盾に対して声をあげている。こういう時に自分は何ができるのか。こうした状況を打破しなければならない。世界から飢餓と貧困をなくしたいというのはこの時からの思いです。

―― 東京大学に入学した当時、まさに東大紛争が起きていました。小川社長は東大全共闘として活動を始めます。

 世界と大学が切り離されてあるわけではありません。大学に入学してから自分は今、何をすればいいのか、そんな課題を突きつけられていました。
 やはり資本主義社会であるから矛盾があるのであって、この矛盾を解決しなければならない。これは社会主義革命をやるしかないと学生運動にのめり込んでいきました。
そして東京大学というのはそもそも官僚養成大学からスタートしていて、体制の人材供給の象徴的な大学でもあった。
 『何だ、こんなのは権力の増殖機構であって、いま民衆が大変な目にあっているのに、ものすごくおかしいじゃないか』と、自己否定しました。
 本当のことを言うと苦渋の決断だった部分もあります。一生懸命受験勉強して、せっかく入った大学だけれども、自らを否定しなければならない。ただこれだけのことを言ってきたのだから、自分なりのケジメをつけなければならないと、結局大学を辞めました。
 
港湾労働者とともに改革目指す
 

―― 大学を辞めて、港湾会社に入社して、労働者を組織されます。

 社会主義革命というのは、プロレタリアと労働者階級を組織しなければならない。ですが、結構、日本の労働者もぬくぬくしちゃってきていた。電機労連(労働組合電機連合)や自動車総連全日本自動車産業労働組合総連合会)といったところは分配にあずかって、リッチとは言わないまでもそれなりの生活をしてきた。
 そういう意味で底辺に近くて、故に革命的である港湾労働者に目を付けました。
 ただ労働者というのは仕事ができないやつの言うことはきかない。まず仕事で認められなきゃならない。
 自ら労働者とともに働きました。仕事は非常に厳しかったです。何十トンもあるような機械を船に積み込まなければならない。ワイヤー、ロープの選定から始まって、それをどういうふうに荷物に掛けていくか。一つ間違えれば命を落とすことになります。
 いつも危険がつきまとっていました。自分自身も大けがをして2回入院するはめになったし、死に損なったことが何回かあった。その情景というのが意外とよく覚えているんですよ。死の間近はスローモーションみたいにゆっくりと良く見えるというけれど、そんな感じだった。
 現場で認められ、一目置かれるようになるまで3年かかりました。

―― その後、社会主義革命を断念する転機が訪れます。

 1975年というのが世界の1つのエポックだったと思います。15年にわたるベトナム戦争終戦を迎え、北ベトナムが勝った。サイゴンの米国大使館の屋上にヘリが上から着いて、ベトナム政府の高官たちが逃げていく映像が世界中に流れました。
 「これが社会主義の世界の頂点だ」。僕はこの映像を見ながら肌で感じました。つまりこれからは落ちるしかない。振り返ってみると、1989年、90年とついに社会主義国の本家ソ連、東欧が崩壊する。そのプロセスに入るちょうど節目だった。
 
ベトナム戦争で資本主義に目覚める
 
 やはり社会主義革命はダメだ。資本主義は戦ってみるとなかなかだった。少なくともこれから300年ぐらいは資本主義的な生産様式が人類の主流になると考えました。
 今度は社会主義革命ではなくて、資本主義という船に乗って、世界から飢えと貧困をなくすんだと。
 しかし、自分は資本主義をまったく知らない。議論をすればマルクス・レーニン主義や中国の社会主義革命だとか、そういう勉強ばっかりしてきた。だから資本主義をやり直さなきゃならなかった。
 そこで資本主義をゼロから学ぶために、通信教育で中小企業診断士の資格を取ることにしました。財務管理からマーケティング、法律までが網羅されている。これはいいやと思って、すぐに始めました。

―― 資本主義の第一歩として扉を叩いたのが吉野家です。

 資本主義の勉強をするうちに、外食業かコンビニエンスストアがいいのではないかと思うようになりました。
 世界から飢えと貧困をなくすことという、10代のころから命題は変わっていない。だから食のビジネスには興味があったのです。
 そんな時にこんな広告募集が目に入りました。「目標は国内200店、米国200店、人材を求む」と。吉野家の求人広告でした。なかなかはっきりしていていいじゃないかと思って、結局、吉野家さんに入ることにしました。
 78年、1月1日から京急川崎駅のすぐそばの店で働き始めました。今でもこの時の様子はよく覚えています。
 さすがに元旦はお客さんがあまり入らない。当時の店長に「どうしましょう」と聞くと、「うーん、そうだな、じゃあ目地磨きやって」と。
トイレの壁にタイルが張ってあるけれど、そのタイルとタイルの間にある7ミリメートルくらいの溝を、ナイロンたわしで親指に力をいれて一生懸命落としていく。1年間全然磨いていないから、汚れがすごかった。このトイレのタイルの目地磨きが外食人生のスタートです。
 
吉野家自主再建に1人防戦を張る
 

―― しばらくして吉野家は経営危機に陥ります。

 その時、私はお店から本部へと異動になり、中小企業診断士の資格を持っていたからなのか、経理部に配属されることになりました。
 この当時考えていたのは「まあ俺がやるしかない」ということでした。業績が悪化して、どんどん銀行の風あたりが強くなっていく。ですが直属の上司である経理部の部長はいつもふらふらとどこかへ出かけてしまう。
 だから僕が矢面に立たされて、説明しなければならない。1人防戦を張ったわけですよ。
 銀行員は「もう牛丼なんていうのはピークアウトじゃないですか。外食業は日本では終わったんじゃないですか」とこんなことまで言う。
 「この野郎、そんなことはない」と胸の中で思いながら、必死に説得を繰り返しました。
 造船業から始まり、自動車産業まで、いつも日本は米国の10年後を歩いてきた。米国では今も流通業が成長を続けている。その様子を見て、ダイエーも店を開いた。外食業でいえば、マクドナルドでさえもまだまだ1万店しか出していない。外食業がピークアウトというのはおかしいんじゃないかと。近視眼的じゃなくて、もうちょっと歴史的に見てくださいという防戦をやったのですが、でもやはり銀行はなかなか信じない。
 銀行団は「国内については小川さんの言うとおりになるかもしれない。けれど海外が心配だ」という。当時吉野家はすでに米国展開を始めていたんですよね。
 それで僕が会計士と弁護士を連れて実際に米国にいってみた。実は、これが苦しかったのです。

―― 結局、1980年吉野家会社更生法を申請することになります。

 米国に渡ってみると、予想以上の不良在庫があった。それでも必死に自力で再建する計画を作って提出した。しかし、銀行は踏み切れなかった。
 そこで僕は当時、吉野家の大株主であり、フランチャイズをやっていた新橋商事という会社に移ることにしました。そこで、経営再建に協力してくれということになったのです。
 だけど行ってみると、なかなかここも困難でした。この新橋商事は不動産の賃貸が収益の柱。そういう会社だとディシジョンタームがものすごく長い。ビルを作って60年で減価償却して…と、そういう感覚です。ですが外食産業というのは違う。『あ、いい物件が出た』となったら、明日手付け金を入れないと誰かに取れちゃう。こういう世界なんですよね。
 我がチーム、僕の部下も含めて、毎日一生懸命やっていたたけれど、すごいストレスが溜まってきちゃって、これはこのままやってもあかんぞと。どうせやるならもっとすっきりした形でやろうと考えた。そして自ら創業する決意をしました。ベトナムから米国が撤退して7年という時代でした。
 

専制君主でやる、責任も100%負う
小川社長インタビュー[2]俺こそが牛丼の保守本流
日経ビジネス9月20日
外食日本一ゼンショー、初めて明かす反常識経営

―― 1982年、ゼンショーを創業し、弁当の販売を始めました。ゼンショーには全戦全勝するという意味が込められています。

 自分は革命家出身でカネがない。何とか500万円を作って資本金にして、部下と3人で創業しました。部下からは「資本金を少し出させてくれ」という話もあった。だけど「ダメだ」と拒否した。
 自分たちは吉野家松屋に続く3番手だし、スモールカンパニーだから単純明快にやりたいと思っていた。だから資本は小川賢太郎100%、ディシジョンは小川賢太郎100%、専制君主制でやるぞと。色々議論している暇はない。今は俺が100%責任を負う、いいよなと。
 
最初から民主主義では成長できない
 
 僕は最初から民主主義的な会社というのは成長しないと思う。やはり強烈なリーダーが、「俺が黒と言ったら黒なんだ」と決めて、その代わり全責任を負う。失敗したら命も無い。
 完全に出来上がった会社と比べたら「何だよ、あの会社。ワンマンで力ずくだ」と言われてしまうかもしれないが、それは違うと思う。企業には色々なステージがある。
 ただし、自分は民主主義教育を受けてきた人間でもあるし、東大全共闘の名においても、いつまでも専制君主でやっていくつもりはなかった。専制君主からスタートして次に立憲君主制、それから憲法を定め、もう少し生産力が発展したら民主主義というように考えていました。
 実際には民主主義というのは生易しいものではない。“人民の人民による人民のため”ということは、労働者が大変な犠牲を払わなければならないし、一生懸命汗をかかなければならない。僕も港湾労働者として働いていときは2回入院したし、死に損なったことが何度もあった。そして何より個人が責任を負わなければならない。そうでなければ民主主義ではない。だから部下には「本当にいいのか、大変よ」と、こう話しました。

―― 今掲げている目標はフード業世界一を目指すということです。創業当時から意識されていたのでしょうか。

 僕らのテーゼとして最初からこの地上から飢えと貧困を無くすという思いを持っていました。社会主義革命ではなく株式会社という船に乗ってやるということがゼンショーの出発点です。
 志は高い。そのために、このカテゴリーではダントツの世界一の会社にしなければならない。そうでなければ人類を飢えと貧困から開放するなんて大それたことができるわけない。よく世界一と言うと、「店数ですか、売り上げですか」と聞く人がいる。しかしふざけるな、バカ野郎、そういうレベルじゃないと。だから目標は1万店とか、何兆円とか、僕は言ってこなかった。とにかくダントツな世界一になって、飢えと貧困をなくしたい。
 だけど創業当時、いや今だって、「そんなことできるわけないじゃないか」と多くの人は言う。しかし、だからこそビジネスチャンスなのではないかと思う。すでに何人かの人が「もしかしたらできるかもしれない」と思っているようなことは実は成功の確率が低い。自分しか持っていない目標だからこそ、能力がついて、時を経れば、できる可能性が非常にでてくる。

―― 弁当店からすぐに牛丼店の展開を始めます。

 机もイスもいらない、キッチンだけでできる最小限の装備が弁当屋だった。だけどやってみると弁当屋は手間がかかる。おかずは毎日変えなければならないし、色々な食材を組み合わせなければならない。マクドナルド、僕が言っているのは日本ではく、米国のマクドナルドですが、それを追い抜くのに3万年はかかるなと。これはちょっと間に合わない。
 
牛丼こそが世界で通用する商品
 
 やっぱり牛丼の方がシンプルでいい。それに牛丼は俺が守ってきた商品なんだという気持ちがあった。
 吉野家の経営が傾いた時に、取引銀行や吉野家の人間は「もう牛丼はダメだ」と言っていた。しかし、経理部にいた自分は一人防戦を張っていた。
 「アメリカのハンバーガー屋はものすごくポピュラーです。そのポジションが日本でいえば牛丼です。ハンバーガーはでんぷんの間に牛肉を挟みこんだもので、でんぶんの上に肉をのせた単純な商品が牛丼だ。牛丼はポピュラーアイテムとしてもっといけるんだ」
 俺が牛丼に世界的な意味を与えた。だから俺こそが牛丼の保守本流だと。
 実際に牛丼は世界で通用する商品だという哲学を持っています。米と牛肉というのは究極の組み合わせです。人類が開発した最高の肉が牛肉で、食品中のたんぱく質の品質を評価するプロテインスコアが一番高い穀物が米なんですね。そして最高の調味料がしょう油。これらを結びつけた単純明快な商品が牛丼。だからシンプルで飽きがこない。

―― ゼンショーが牛丼店を展開した時、すでに吉野家は200店を展開していました。それでも不安はなかったのでしょうか。

 僕の考えから言えば、牛丼は米国におけるハンバーガーのポジション。少なくとも米国で1万店のマクドナルドが成り立つなら、人口比からしてもすき家は5000店が成り立たつはずだと考えたわけです。普通の人が見れば200店は圧倒的な差だったかもしれないが、僕の目でみると「うん、200店か」と。
 1対200からの試合ですから、もちろん大変です。順位を入れ替えるというのはそう簡単にできることではない。しかも固定観念として国民の中に牛丼というと、「あ、吉野家」という“慣性の法則”があった。
 ただ、そんなものは知恵と力で打破している、という自信は持っていた。それからもう1つ、フェアな競争をやっていくことは消費者にとっても、流通産業にとってもいいことではないかと思います。
 実際、すき家は新たなマーケットを開拓していきました。
 吉野家の牛丼は、「駅前で男がかっこむ」というような商品だけれど、米国のハンバーガーは別に男の食べ物ではない。女性だって、子供だって、お年寄りだって食べている。日本におけるハンバーガーのポジションは牛丼がやるんだから、女性や子供、お年寄りにも絶対に食べていただけるはずだし、そうしていきたいと考えていた。
 だから郊外に店を出し、駐車場をつける。テーブル席を増やして、商品もトッピングを増やして、選択の幅を広げる。客層を広げると宣言しているのだから、小さいものから大きいものまでサイズバリエーションを豊富にした。

―― 人類から飢えと貧困をなくすという目標のために、事業展開のスピードも上げてきました。

 率直に言うと、ゼンショーが外食業界のなかで先鞭をつけてM&A(企業の合併、買収)をやってきた。ゼンショーでは原材料の加工から物流、そして店舗まで、ムダのない仕組みを作りました。M&Aをする時はこの仕組みに当てはめて、メリットがあるのかどうかを考える。もちろん慎重に考えているので100件のうち、成約に至るまで、3件あるかないかです。
 
人類の文明の歴史はスピードの歴史
 

―― 店舗網が急速に増えれば、限られた人材に効率的に働いてもらわないと追いつかない。ゼンショーでは、人の労働生産性を徹底的に追求されています。

 僕は人類の文明の歴史はスピードの歴史であるという認識をしています。人間は直立歩行を始めて400万年、馬に乗り始めたのはおそらく2〜3万年前。時速4キロで歩いていたのを、馬に乗って初めて時速50キロの壁を突破できた。そしてここ100年で車を発明し、ようやく100キロの壁を突破できた。今度はどんどんスピードが上がって、たったの数十年でジェット機を発明し、1000キロの壁を突破できた。スピードを高めようと努力することによって、文明は飛躍的に発展する。
 カウンター席で「牛丼並」の注文をもらうと、原則として10秒以内に提供する だから店舗のオペレーションにおいても、スピードは非常に重要な作業軸です。店舗だけではなく、本部の社員にもスピードを求めています。全社員に配布する、ゼンショーグループ憲章では「歩く時は1秒2歩以上」と規定があります。

―― 細かくマニュアルを定めていることによって、社員ががんじがらめになってしまうことはないのでしょうか。

 人間が自由に判断するためには、日常的に実施することは決めておくべきです。つまり、決めるべきことは決めておけば、空いた頭は自分の判断に使える。
 だから僕は浴室内で頭を洗うシャンプーの置き場所はセンチメートル単位で決めている。最短の距離でムリ、ムダ、ムラがなくシャンプーを出せて頭を洗える。シャンプーはどこだっけと探すのはダサいわけで、毎日やることは決めておけばいい。その分、頭を自由に使うことができる。これは社長もパートタイマーも同じだと思う。

―― 作業が効率的にこなせるようにマニュアル化しているから、深夜1人で店舗を回すことも可能になります。すき家ではそれをワンオペレーション、通称“ワンオペ”と呼び、多くの郊外店では深夜にワンオペを実施しています。このワンオペによって店舗への強盗が多発しているという指摘もあります。

 すべての時間帯において、売り上げに対応する科学的なシフト、労働投入を組み立てています。ですから売り上げに応じて夜中でも2人オペ、3人オペという店もある。
 強盗防止には力を注いでいます。各都道府県の県警と緊密な協力関係を築き、防犯訓練をやってもらったり、アドバイスを頂いたりしている。即応体制についても、やはり両者で協議をして強めてきている。非常に検挙率が上がってきていると思います。
 それに店舗の様子は本部ですべて画像に撮っていますから、警察にその画像を提供するという仕組みもできている。もちろんさらに改善には力を注ぎます。
 ただ、メディアの責任もあると思う。明らかに報道されると増えてしまう。このことをことさら強調して報道されて、「ああ、この時間なら1人なのか」と誘発している要素があるのではないかと思います。防止という観点も持つことを報道機関にお願いしたい。

―― 鍛えあげられた組織や魅力的な商品でさえも、一瞬にして意味のないものになってしまう。牛丼が売れなくなる危機がありました。それが2003年に発生した米国産牛肉のBSE牛海綿状脳症)騒動です。

 当時、すき家は米国産牛肉を100%使用していたからダメージは大きかった。しかし、アントレプレナーには楽観的な人間が多いのかどうか知らないけれど、実はその時、家内と米国への海外旅行を予定していました。創業以来、冬にまとまった休みを取って旅行をしたことがなかったので、旅行は続行という方針を出した。しかし、このディシジョンは誤りだった。
「俺がやれば3日でめどがつくだろう」と思っていたけれど、情報が入れば入るほど、非常に深刻だった。米国から仕入れて、船に乗っている牛肉はすべて税関で止められるだろうと。そうなると在庫は1カ月半で終わってしまう。もう2月上旬には牛丼が売れなくなる。
 
先鞭をつけて豚丼を開発
  
 もうこれは今、変化対応能力が問われていると思いました。結局、2004年9月に豪州産の牛肉を使用した牛丼を発売したけれど、この時は豪州産を使おうなんて全く思っていなかった。牛丼に使えるわけないと思っていたんですよ。豚にいくしかないとまず考えました。
 そこで牛丼の鍋を外して、中華鍋を買ってきて、豚肉を炒めてみたけれど、全然ダメ。スピードが追いつかない。僕らの商売は最低限1時間で100食以上は安定的に出せるようにしなければならない。1時間にせいぜい20〜30食。そうなると煮るしかない。しかし豚には臭みがある。その臭みを抜いておいしく食べられるように工夫して、やっとなんとか間に合った。2004年2月4日、豚丼を発売した。
 これは国民に対して説明する必要があると記者会見を開きました。「牛丼のすき家」って看板に書いてあるのに、牛丼を売れません。申し訳ないと。そこから豚丼、1杯280円で売り始めました。割に合わなかったけれど、値上げするわけにはいかなかった。

―― その後、豪州産に挑戦されたのはなぜなのでしょうか。

 最初は良かったのですが、やっぱり何か変だなと。自分で人類の開発した最高の肉は牛肉だと言ってきたから、内心忸怩たる思いがあった。緊急避難で1カ月、2カ月ならともかく、これからずっと売るのかよと。
 ただ情勢からみると、米国はすぐ再開することはないだろうと僕は読んだ。実際にオーストラリアにルート開拓に行きました。探してみると、やっぱりある。求めていた肉が手に入った。それで新たに、タレもゼロから作り直して始めることにしました。
 大事なのは豚丼や豪州産牛肉を使用した牛丼も、僕らが先鞭を付けてやったことです。やっぱりスピードを持ってやった成果だと思います。

―― BSEをきっかけに、食の安全には並々ならぬ力を注いでいます。会社のスローガンにも「食べる物に、世界一臆病な企業でありたい」と掲げていました。

 安全でおいしいものを世界中で気軽に食べられるような仕組みを作るというのは我々のミッションであると「ゼンショーグループ憲章」にも書いています。食のリスク対応は第1位にやるべきことだと考えています。
 
自らの手で安全を確認する
 
 だから投資をして、システムを作ってきた。原材料を自ら検査する食品安全追求本部という組織を作り、優秀な技術者を雇い、最新鋭の機械で分析しています。外注すればできるけれど、3日も4日もかかってしまう。だけどそれでは間に合わない。
 とりわけ牛肉は非常に大切ですから、力を注いでいます。北海道に自社の牧場を持っているのも食の安全という観点からです。
 自分たちで肥育をして、きちんと理解したい。子牛に初期に与えるミルクがどういう成分で、どういう頻度で飲ませると、どうなるのか。病気になった時にどういう治療をやるのか。その時に抗生物質は打つのか。その残留のリスクはどうなのかとか、そういうことは丹念に育てていかないと分からない。

―― 食のリスクを徹底的に排除したとしても、働く人の気持ち一つで再び組織は不安的になってしまうこともあります。2008年4月、仙台市の従業員が、残業代が未払いだったとして、ゼンショーを訴えました。

 何万人の人がそれぞれ目標を持って働いている。これだけ多くの人がいるから自分の思いが伝わらないこともある。色々不満やトラブルが出てきてしまうのが普通です。
 ただ訴訟は他社と比べてものすごく少ない。もちろん少ないからいいのではない。いきなり裁判となるのではなく、きちんと議論をしたい。それが日本のいい伝統なのではないかと思う。「百かゼロか」ではない落としどころを探しています。

―― 強いリーダーシップの元では、後継者が育ちにくいということもあります。

 ゼンショーグループには子会社のトップなど、CEO(最高経営責任者)が20人いる。後継者の基盤はできていると思います。それにできるだけ現場の幹部とも直接話す機会を設けている。
 社長室には六角形のテーブルがあり、そこで幹部たちから毎朝報告を聞いています。そこにはできるだけ現場の社員を連れてきて欲しいと伝えてあります。生の思いを直接聞きたい。
 自分が理想としているのはサッカー経営。現場に入ったら、それぞれの人間が自分の考えのもとで、動いてほしい。
 
 ざまあみろ、俺が言った通りだ
 

―― 今まさに、日本マクドナルドホールディングスを抜き外食日本一に上り詰めようとしています。

 そうでしょう。ざまあみろ、俺が言った通りだ、コメの方が強いだろうと。2000年コメを食べて来た日本国民を相手に商売をやらせていただいて、パンに負けたら恥だと思っていた。
 ただ先のことはあんまり言ってもしょうがないと思う。上場企業としてはアナウンスすべきですから、2014年までは300店ずつ出しますと発表しています。
 そこから先は、まあ、いいじゃないかと(笑)。企業のフレキシビリティーは必要だと思う。状況が悪ければ2015年から出店をゼロにするかもしれないし、良ければ600店にするかもしれない。3年先、4年先のことをマジで議論してもしょうがないじゃない。海外については中国、ブラジルに出しましたけれど、まだやり始めたばかりですから。
 一つ言えるのは、いままでの10年間より、もっと跳ねられるということです。2000年3月期は174億円の企業だった。それを10年で20倍にして、3500億円規模になった。
 売り上げは20倍だが、資産は20倍以上になっている。この10年、我が戦線に加わった仲間は多い。
 私が大切にしているのはまずは体力。20世紀はあまりに知力に偏重したのではないかと思う。だから創業時からベンチプレスを購入し、今も社内にトレーニングジムを設置して、体を鍛えている。体力があるものが必ず勝つと信じているからです。