大野一雄さん死去

   

     
さいきん漏れが若いころの有名人がよく亡くなる。さみしい。
しかし大野さんって地獄のニューギニア戦線に従軍していたんだよなあ。
あの表現はまさに身体をもって表現された日本近現代史の一側面なんだよね。
藝術は閉じた物質じゃない。身体にcontainされた時間空間世界。
ソエジー的にいえばグローバルスタンダードでの世界認識をもった稀有の表現者だったのだと思う。
合掌
     

大野一雄さん死去 「舞踏」を確立
6月2日7時56分配信 産経新聞
     
 白塗りの化粧と緩やかな動きで知られる「舞踏」を創造し、国内外で活躍した大野一雄(おおの・かずお)さんが1日、呼吸不全のため死去した。103歳だった。通夜、告別式は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は次男で舞踏家の慶人(よしと)氏。
   
 帝国劇場でスペイン舞踊を見たのをきっかけに舞踊家を目指す。戦後、現代舞踊家として活動。暗黒舞踏土方巽と出会い、「舞踏」というスタイルを作り上げた。昭和52年に発表した代表作「ラ・アルヘンチーナ頌」で注目され、海外でも人気を集めた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100602-00000044-san-soci

    

大野一雄の踊りの変遷 3章の2
日時: 2006/09/15 17:30
名前: 本永惠子
   
  戦争
  
 大野一雄は戦争について身内にもほとんど語っていない。語らないからこそ、戦争体験が非常に大きいものであったとも言える。以前、NHKが大野のドキュメントを制作した時に、大野と戦争で一緒だった人物のインタビューがあった。大野の語らない時間に迫ろうと言う試みであったと思われるが、その人物もあの戦争については、大野が語らないのは理解でき、自分も語らない、大野も語ってもらいたくないだろうと話していたのである(大石 2003年)。また、ダンサーで舞台芸術家のEiko(註20)は、1990年に中国で行ったworkshopの話を大野にした時に、大野が「中国には行くことができない」と言っていたのを鮮明に覚えている。普段はそのようなことに言及しない大野の、戦争の意味を深く考えてしまったという。(Eiko 2003年)
 それでも、断片ではあるが、大野が戦争を語ることがある。そしてその断片にも、戦争の苦しみ、そこから踊りの源泉につながるものを見つけることができる。ここではそれらの話に着目し、大野の戦争体験がどのように踊りの源泉に結びついているか考察したい。
 まず、はじめに大野一雄の戦争での経歴を簡単に見てみる。
   
 大野一雄は1938年、昭和13年8月に召集された。女学校で教えるためのダンスを江口・宮舞踊研究所に習い始めて1年半ほど、次男の慶人が生まれてからは1ヶ月であった。召集後は陸軍少尉として配属された。以来8年間、中国・華北開封市、ニューギニアを転戦し、その間に陸軍大尉として師団司令部・情報主任将校として任務にあたるようになっていた。終戦後はニューギニアのマノクワリ、ソロンで捕虜として生活をした後、1946年に復員した。
 大野は華北ニューギニアと最前線にいたが、ニューギニアの戦闘は太平洋戦争の日本の闘いの中でも最も激戦としてあげられる。ニューギニアに入った日本兵のおよそ18万人のうち約15万人が命を落としたとされている。しかもほとんどが熱帯雨林気候の中、ジャングルでの餓死とマラリアなど風土・伝染病による“戦死”だったのである。体験しなければ理解できないと言うのは間違っているが、特にニューギニアの当時の生還者の人数という数値だけでも想像にあまりあるできごとに思われる。
    
 本論に戻って、戦争について大野が語っている話を幾つか取り上げてみる。
 あるインタビューで「戦争の挫折は?」と質問され、大野一雄は次のように話している。
「戦争そのものが挫折そのものだから。情報将校として中国大陸の河南省開封と、ニューギニアに合わせて足かけ八年いて、その間一度も日本に帰っていません。
 開封で一日休みがあるでしょ。(兵隊が)町へ流れていく。気狂いのように銃を空に向かって発射する。ある時は、(中国人が)二十人ぐらい倒れてうなっていた。弾が当たっているのもいないのもいる。五、六人が機関銃でダダーッとやったんです。戦争をする時はつねに自分の方が正しいと思う。それが頭のすみずみまである。戦争は人間を狂人にします。」(松井 1999年, p.46)
 ここでははっきりと「戦争そのものが挫折そのもの」、「戦争は人間を狂人にします」と言っている。多くは語らない大野だが、戦争に対してどのように思っていたかがわかる貴重なインタビューである。
 他には、捕虜生活をはじめ、食料調達の話を聞く機会はあった。イモを育てたり、鮫を爆弾で捕ることもあれば、はえ縄漁式にして捕ったりしていた。多くが飢餓で死んだニューギニア戦線での食料調達は、そこにいる1万人の命がかかっていたのである。
        
 中にはめずらしく作品になっている出来事もある。大野が舞台でスーツを着て踊るときに、逆毛を立てる格好をすることがある(『愛の夢』ほか)。大げさに立てた髪も実は、情報将校故に敵から狙われていた大野一雄が、気づいた時には敵に囲まれていて、その時に髪が逆立っていたことによると聞いている(大石 2003年)。
 そして次に記述する詩人・吉増剛増との対談では、1999年にカムチャッカに行く予定であった大野が、『ひぐまの踊り』『鰈の踊り(『わたしのお母さん』より)』『ウインナーワルツと幽霊』とともに、戦後すぐに作った『水母の踊り』を踊るという話から、『水母の踊り』が戦争のどのような出来事から作られたかがわかるのである。
           
大野■もう一つは「水母の踊り」です。戦時中、私はニューギニアに二年間働いていました。ある時には八〇〇〇人の人が移動して、前の人が道に迷うと、それについて行った六〇〇〇人が死んで、二〇〇〇人が残った。そして食うや食わずで体がボロボロになつて、おできができてね。
吉増◆先生の“生者の行進、死者の行進”というのは、そこに関係があるのですね。
大野■いよいよ負け戦になって終戦になったわけです。一万トンの船に何千人と乗って日本に向けて出発する。その時にいろいろな人が、これから出発する、元気を出してやろうと言うのだけれども、次から次へと人が死んでいく。すると、国旗に包んで水葬をやるわけです。ブーッと汽笛を鳴らして、二回か三回か船を回すのです。本当にそれはね、悲しいですよ。日本に帰ったときにこのままじゃ申し訳ない、安全に帰って来たのだから。水母にはたくさん種類があって、それが次から次に動くというようなことを見て、日本に帰ったときに「水母の踊り」をすっと演ったわけです。ニューギニアの帰り、生者と死者たちの体験。多くの人が船中で死んだ。水葬をして帰って来た。だから私は「水母の踊り」を演らざるを得なかった(大野・吉増 1999年, pp.34-35)。
            
 この話の中に出てくるが、「ある時には八〇〇〇人の人が移動して、前の人が道に迷うと、それについて行った六〇〇〇人が死んで、二〇〇〇人が残った」死の行進がある。戦争中、最前線で数限りない死を見てきた大野が、このことは何度も語り、踊りの源泉としているのである。大野の中では次のようにつながっている。
ニューギニアでの体験です。約六千人の日本の兵隊さんが、敗戦のため東部から西部へ雪崩をうって移動した時、約二千人が亡くなったと知らされております。ジャングルの中で先を歩む者が道を誤った時、後につづく者はすべて行き倒れです。
 女性の性の流れの中、億単位の精子は信じるように、確信を持つように、いや信じて確信して遡ったのですが、結ばれたのは一個だけです。遡って行く精子の姿は狂気そのもの。ジャングルでの体験、行き倒れの情景は精子の体験でもあります。」(大野一雄 1989年, p.22)さらに大野は、この結ばれなかった「無数の精子も何らかの役割を果たして」(大野一雄 1989年, p.23)おり、「成立した新たな生命に宇宙記憶、生命記憶として刻みこまれ」(大野一雄 1989年, p.23)、重要な役割をしていると考えている。大野はここに“死者の恩恵”を見ている。
          
 大野は戦争のことで食料調達の話をよくしたが、その裏には死んでいく兵士たちもおり、大野の当時の情報将校であった配属を考えると、戦争がもたらせた意味は、これらの逸話だけにはない。大野が“死者の恩恵”を語る時には、深く二つの意味を持つと考えられる。現実に大野の前で死んでいった戦友たちへの鎮魂の思いと、そして人の一生の最後に来る“死”から派生する、それが続いたものとしての自分の生命という概念としての“死者の恩恵”がある。戦争が大野に影響したことは計りしれないものがあるが、大野の踊りの源泉として、戦争においての“死者の恩恵”も、大野一雄の中でお母さんの項で触れたように輪廻ともなって、死であり、命ともなり、また大野の踊りの軸ともなったと考えられるのである。
          
註17・共時性シンクロニシティ:心理学者のユングが提唱した概念で、因果関係はないが意味を持つ偶然の一致。
註18・例えば、1999年ニューヨーク公演時にも、その楽屋で大野が叔父さんの詩集を読んでいたのをEikoが目にしている。また、1994年から2002年まで大野の衣装を担当していた大石宏子も、折りにつけ大野が叔父さんの話をするのを聞いている。
註19・坂崎乙郎(1928ー1985):西洋美術史家、美術評論家。東京生まれ。1951年早稲田大学独文科卒、同大学院で西洋美術史を学ぶ。後、ドイツのザールラント大に留学。ドイツ表現派の評伝『夜の画家たち』(1960年)以来一貫して、時代と宿命の重圧下を生きた美術家に関心を寄せ、反逆、異端、幻想、夭折の才能を発掘し再評価した。坂崎なくして、池田淑人の記録が残ることはなかった。
註20・Eiko&Koma:ニューヨークを拠点に活動する舞踏家/振付家デュオ。1971年土方巽に師事したが、すぐに独立。自らの作品を創作する傍ら、大野一雄に師事した。ノイエ・タンツに興味のあった2人は、1972年ドイツに渡り、メアリー・ヴィグマンの弟子であったマニア・シュミエルに師事。1973年から1年間、ヨーロッパ各地で公演を行い、1974年末帰国。アメリカ移住までの1年半、大野一雄の稽古場に再び通う。1976年、故ルカス・ホーフィンクに勧められてアメリカに渡り、初公演。その後、アメリカを始め、ヨーロッパや日本などで公演を行う傍ら、重要な表現手段のひとつとしてダンス・ビデオの制作も手がける。1980年には、大野一雄のニューヨーク初公演のプロデュースを行った。1996年日本人ダンサーで唯一、マッカーサー基金ジーニアス賞」を受賞。なお、1976年、大野一雄に「アルヘンチーナの写真を送ったニューヨークにいる教え子」とは、彼らのことである。