日本と朝鮮半島2000年 第6回 蒙古襲来の衝撃


通常この部分だけが紹介される『蒙古襲来絵詞』ですが、これだけだと日本軍苦戦している印象です。血が出ているし。。

でもパンをすると実は蒙古兵が逃げていく図だったのです。

さらに一番乗りの武者の後方には追撃軍が続いており「一騎打ち」ですらありません。
   
深夜の再放送をたまたま観てしまった。
韓国人に都合の良い歴史観で洗脳しようとするNHK。
しかし漏れはもともと三別抄に同情的でその抵抗精神を尊敬していたからイヤな想いをせずに済むかなと思いついつい付けっぱなしに。
高麗のみじめな敗北と隷属をちゃんと解説していた。
ベトナムバクダン川の戦いをテレビで紹介するのを初めて観た。
そういう意味で最初の頃よりましだったのだが。。。
 
問題は文永・弘安の役の日本軍の勝利をあいかわらず「朝鮮・越南の抵抗+暴風雨」のお陰としていることだ。
最近の史学会では日本軍の軍事力が勝っていたから勝利したという説が定着しつつあるにも関わらずだ。
そして高麗王は嫌々日本侵略に荷担したと示唆する。
本当は朝鮮・越南+暴風雨のお陰なのに日本人は恩知らずだね〜夜郎自大だね〜と言いたいのか?
日本軍が強いとなにか困ったことでもあるんでしょうか?
  
実はあるのだ。
   
朝鮮は負けた。日本は勝った。
それが朝鮮惰弱史観・日本神国史観の根拠のひとつになっているからだ。
考えてみれば白村江で負けて以来の歴史観の転回点だものな。
だから唐突に「ムクリ・コクリの鬼が来る、と元や高麗を下に観るという見方を生んだ」という解説が入る。
なぜこの言葉が差別意識を示しているのかわからないし侵略者を憎むのは当然だと思うが「日本人は蒙古高麗は弱いと思った」という認識を解説しないから話が繋がらないのだ。
  
ゲリラ部隊に過ぎない三別抄の活躍を延々と語るのもその裏返しだ。
日帝抵抗史観と同じで亡命朝鮮政府は負けていなかったと言いたいのである。
黒田勝弘さんのいう「朝鮮頑張った史観」なのだ。
 
だいたい三別抄は30年間も抵抗したと言うが、冷静に考えてみれば放っておかれたのである。
反転攻勢したわけじゃない。
そもそも巨大な築城には何十年もかかる。
にもかかわらず蒙古がそれを妨害しなかったのを変に思わないだろうか?
相手にされていないのだ。
その間高麗はモンゴルに直接支配された。
王家はあんまり無視されつづけて半島に影響力が無くなることを怖れて降伏したのだ。
だからこの部分は三別抄の抵抗というわけではない。
三別抄の抵抗といえるのはそれから11年後、崔氏が武装蜂起してからだ。
韓国人はそれを「反モンゴル民族抵抗運動」のように語るが、率直にみて弱体化した高麗王室を狙った崔氏のクーデターとみるべきだろう。
しかも逃げ回ったあげく実質3年で鎮圧されている。
よく本には「さんざん手こずらせた」と書いてあるが具体的なエピソードもなく、弱体高麗軍とは渡り合ったらしいが蒙古軍を苦しめたとは思えない。
この辺も戦果不明の「朝鮮光復軍」とおなじ臭いがする(^_^)
 
亡命朝鮮政府?が日本に助けを求めたのに助けてくれなかったのは薄情だと恨み節が続くが、余計な手出しをして酷い目にあった白村江の教訓はどうなるんでしょう?
そもそも日本に救援を求めたとき崔氏側に王族はいなかったのだから東洋的な意味での正統は属国政府にあるんです。
たかだか数千人の崔氏の私兵に過ぎない三別抄敗残兵なんか支援したらそれこそ侵略です。
あとで何を言われることやらψ( `∇´ )ψ
あげくの果ては三別抄沖縄建国説ですか。┐(´д`)┌ヤレヤレ
まぁ日宋貿易の盛んだった頃ですから沖縄に逃げた人もいたでしょう。
しかし瓦の技術を伝えたくらいならともかく築城法を伝え沖縄戦国時代をスタートさせたというにあたってはほとほと呆れた。
何万人が亡命したというんでしょうか?
そんな重大な事実があるなら伝承や物証、言語の痕跡があっても良さそうですがなにもありません。
日本史学会でまったく相手にされていない2009年に発表されたばかりの韓国の新説をすぐにテレビで流すNHKさんの肝っ玉に畏れ入ります(^_^)
任那日本支配説のような逆のケースではかなり根拠があっても疑わしいとか言うくせに。
さすがにNHKはそこまで言わなかったが、韓国人は「沖縄はウリナラが建国したニダ=ウリナラのものニダ」って言いたいわけだからね。
  

ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」
第6回 蒙古襲来の衝撃 〜三別抄と鎌倉幕府〜教育 2009年9月27日(日)午後10時〜11時29分
 
13世紀後半、日本を震撼させた蒙古襲来。その3年前に朝鮮半島から救援を求める謎の国書が届いていた。
送り主は、高麗王朝に反旗を翻し蒙古に徹底抗戦を唱えた軍事集団、三別抄。
近年の研究で三別抄の激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせるなど、蒙古軍の敗因のひとつになったことがわかってきた。
チンド(珍島)からの救援要請に、日本はどう応じたのか?
東アジア全体に視野を広げ、日韓双方の視点から空前の危機を読み直す。

   

<にゃんこのメモ>
1231年:モンゴル高麗侵略を開始。
1232年:あっというまに首都開城陥落。王族は江華島に閉じこもる。
1258年:高麗王、モンゴルに降伏し江華島を出る。(26年間放置!され高麗王室の影響力が無くなることを怖れたので降伏した)
1269年:モンゴルのいぬ間を狙って崔一族の林衍が国王を軟禁しクーデターを起こすが鎮圧される。
1270年:敗残兵の一部はクーデター側王族王温をつれて江華島に閉じこもる。
1271年:モンゴル軍到着し降伏勧告。三別抄は「全羅道くれれば降伏します」と回答するが拒否され敗北。反逆王族も処刑され、残兵は珍島に逃げ日本に助けを求める。
1273年:珍島から逃げて済州島に至った残兵も追い詰められ将軍金通精は自害、生き残った1300人は捕虜となった。3年余りの反乱は終結した。

消えた三別抄、実は琉球に逃れていた!?
  
朝鮮日報】兪碩在(ユ・ソクジェ)記者 記事入力 : 2009/05/03 08:56:31
  
1273年に済州島から敗走した一部の勢力が沖縄へ
  
当時の船なら早くて三日
  
 大帝国モンゴルの馬のひづめが高麗を踏みつけた13世紀、最後まで対モンゴル抗争を繰り広げた軍事集団が「三別抄」だった。崔氏政権の私兵だった三別抄は、王室が江華島から開京(現在の開城)に戻った1270年(元宗11年)、承化侯・王温(ワン・オン)を新たな君主に推挙し、ぺ・ジュンソンの指揮下で抵抗を開始した。
  
 三別抄は1271年5月に高麗・モンゴル連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島が陥落した。それでも、金通精(キム・トンジョン)を中心として済州島に移り、ここから現在の京畿道富川まで攻撃し、死闘を繰り広げた。73年4月、軍船160隻に乗り込んだ連合軍が圧倒的な軍事力で済州島に猛攻をかけた。金通精は自決し、残る1300人は捕虜となった。今までの歴史は、ここで三別抄が滅亡したと見ている。
  
 果たして、捕虜を除いたほかの人々は全滅したのだろうか。もし、生き残った三別抄の勢力の一部が胸に「恨」を抱いたまま水平線のはるか南へ向け旅立っていたとしたら、彼らが到着した場所はどこだったのか。済州島から南へ700−800キロ離れた沖縄ではなかったか。後の時代に洪吉童(ホン・ギルトン)が渡って作った「葟島国」がまさにそこだ、という話も伝えられている島だ。
   
 ところが、これは想像の上での話ではないという状況になった。学界で本当にこうした主張が提起された。公州大歴史学科のユン・ヨンヒョク教授は、3月20日に開かれた韓国中世史学会主催の学術大会で、「沖縄の高麗瓦と三別抄」と題する論文を発表した。沖縄本島南側の浦添城などから出土した瓦は、73年に高麗の三別抄の勢力によって作られた可能性が大きい、というのがその内容だ。
    
 その「瓦」の存在が本格的に注目されるようになったのは2007年6月からだ。「耽羅琉球王国」特別展を準備していた国立済州博物館のミン・ビョンチャン学芸室長(現在は国立中央博物館学芸研究官)らは、沖縄から貸与された13−14世紀の鬼瓦が、同博物館が所蔵している13世紀の高麗時代の瓦とそっくりだという事実を発見した。鬼瓦とは、筒瓦が連なった軒の端に付ける瓦のことを指す。
     
 二つの瓦は、いずれも円の周囲にハスの葉が刻まれ、縁には連続する点の文様があった。博物館が所蔵する瓦にはハスの葉が8枚、沖縄の瓦は9枚という違いがあるだけだった。博物館の瓦は、全羅南道珍島竜蔵山城から出たもので、竜蔵山城は三別抄が対蒙抗争の根拠地とした場所だった。
    
 沖縄から貸与された瓦の中には、もう少し確実な内容を示す牝瓦(めがわら=凹面を上向きにふく瓦)もあった。瓦にはこんな文字が書かれていた。「癸酉年高麗瓦匠造(癸酉の年に高麗の瓦職人が作った)」。済州島の三別抄の勢力が鎮圧された1273年が、まさにこの癸酉年に当たる。そうすると、珍島や済州島から沖縄に渡った一部の三別抄の勢力が沖縄に到着した後、瓦ぶきの建物を建てたのだろうか。
    
 この「高麗瓦」は、浦添城や首里城などあちこちから出土しており、かなり前から知られていた遺物だが、韓国ではそれほど大きな関心を呼び起こすことはなかった。日本の学界では、瓦の「癸酉年」とは朝鮮開国直後の1393年とみるのが普通だった。『高麗史』に初めて高麗・琉球間の交流の記録が登場するのは、琉球の中山王察度が使臣を派遣した1389年だからだ。
     
 ところがユン・ヨンヒョク教授は、発表文で「癸酉年は1273年以外どの年と見るのも難しく、その瓦を作った勢力は三別抄が有力だ」という見解を明らかにした。1389年ならば、高麗の職人が元や明の年号を使用した可能性が高いが、瓦には干支だけが記録されていた。三別抄は外交文書で干支だけで年代を表示していたという。また1392年の朝鮮開国は、少数の政治集団によるクーデターという性格が強く、技術者集団が海外に移住する状況が繰り広げられたわけでもない。
              
 ユン・ヨンヒョク教授は、珍島の三別抄がモンゴルの圧力に対処する手段として日本との共同作戦を構築しようしたことに注目している。珍島が陥落してからしばらくたった1271年9月、京都に届いた書状の中で、三別抄は「モンゴルはすぐに日本を侵略するだろう。食糧と兵力を支援してもらいたい」と要求した。済州島の三別抄の勢力(高麗耽羅)もまた、日本に到着した元の使臣・趙良弼の活動を妨害し、京都に入れないようにした。
         
 このような外交活動を考慮すると、▲当時三別抄の勢力が珍島から済州島に移動した際残存勢力の一部が済州島ではなく日本など第3の地域に分散した可能性があり▲済州島陥落の際には珍島のときよりも多くの分散が不可避だった−とユン・ヨンヒョク教授は分析した。
   
 しかし、後世の記録を見ると、朝鮮人琉球列島に漂流し送還された話がかなり登場する。『朝鮮王朝実録』だけを取り上げてみても、「太祖実録」太祖(1397)年条に、9人が琉球に漂着した話があるのをはじめ、明宗元(1546)年までに13件の事例が記録されている。これは、ほとんどが送還された場合の話であり、漂流した例はもっと多かったと考えられる。琉球に流れ着くまでの時間も、それほど長くはかからない。英祖46(1770)年12月25日に済州港を出港し遭難した張漢竽(チャン・ハンチョル)一行は、わずか三日後の28日に沖縄の虎山島へ漂着した。
           
 こうした事例は、三別抄が済州島から計画的な航海を試みた場合、十分に沖縄にたどり着くことができることを示唆している。珍島陥落が5月、済州陥落が4月の出来事だったのに加え、朝鮮後期の記録に基づく統計を見ると、4月から8月までの5カ月間は、海上での事故が最も少ない期間だった。
         
 もし三別抄が沖縄でその瓦を使って建物を建てたのなら、今でも古代史の大部分が空白のままとなっている沖縄の歴史において、かなり重要な意味を持つことになる可能性がある。三別抄が韓国史の記録から消えた13世紀から、沖縄ではようやく農耕が本格化して人口が急速に増え、地域勢力が成長し始めたからだ。あちこちに大きな城も築造された。一体どこから、そんな技術が突然流入したのだろうか。
        
 そのため最近、「沖縄の琉球王国が建国の基礎を固めるに当たり、決定的に寄与した人々は、まさに三別抄だった」という意見が提起されている。三別抄の勢力が主導した沖縄の大型建築工事が、政治的共同体の出現を導き出した、というわけだ。こうした視点について、ユン・ヨンヒョク教授は「現地の資料をもう少し研究する必要がある。民族抗争史のレベルにとどまるのではなく、中世東アジア交流の国際的な脈絡から、この問題を見なければならない」と語った。
                         
 15世紀に統一琉球王国が出現した沖縄は、朝鮮とも活発な交易を行い、1879年に日本に強制併合されるまでは独立国だった。第2次大戦後は米国が占領し、1972年に日本に完全に返還されたが、依然として独立を要求する声が起こっている。
                     
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者