任那日本府

   

   
任那日本府と書いて「やまとのみこともち」と読む。
天武天皇以降の国号「日本」があるから捏造だ、というのは言いがかりで、要するにヤマト(日本)の王族の支配地という意味だ。
さて任那は532年に滅びる。そして536年に博多に太宰が任命される。
これは何を意味するのか?
日本の外交窓口であった在朝鮮の任那が滅んだために急遽北九州に代替の役所に設置されたと言うことだ。
別宮暖郎さんの説に賛成する。
伊都国と太宰府の間の外交窓口が任那日本府だったのだろう。
ということは任那は在地倭人コロニーやら百済伽耶諸国の倭臣ではなくて、ヤマト王権出先機関であったということだ。
それはすなわち倭国の支配地があったことを意味する。
古代の国家領土意識が希薄な時代、伽耶百済倭国の軍事力を利用するためには倭人駐屯軍に経費をまかなう領地を認めただろう。
それはヤマト王権からすれば年貢を差し出す領有地であり、伽耶からすれば施設付属地だろう。
新羅統一前の朝鮮半島は「ファジーな地域」だからそれで成り立っていたのだ。
倭人とすれば、鉄簇を確保し楽浪郡との窓口になればいいのだ。
同様の理由で新羅百済にもヤマト大王領地が存在した。
こんなのは欧米貴族達の領地の錯綜をみれば容易に想像できることだ。
ところが、中国支配が緩むとバランス・オブ・パワーが崩れ「ファジーさ」は許されなくなる。そのうえ6世紀には日本でも鉄が自給できるようになる。
重要度の下がった朝鮮領土を維持することに対してヤマト政権のコンセンサスが崩れてくる。
結局倭国百済新羅の「国家主権」を承認するかわりに地税収入と外交拠点=商社支店の確保を認めさせることで満足せざるを得なくなってくる。それが蘇我・物部の路線対立の遠因であり、日唐戦争(白村江の戦い)に繋がるのだ。
   

 時 期    外務担当官
 0?〜283 伊都国   一大卒
369〜532 任那日本府 在安羅諸倭臣?
536〜    太宰府   大宰(おほみこともち=ヤマト王族の役所)
1590〜   対馬府中藩 対馬
1868〜   外務省   外務卿