民族とネーション

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

 
   
すごく久々に岩波新書を買った。苅部直さん以来だ。
良かった頃の岩波を思い出す良書だった。
  
漏れは「近代主義者」「民族主義者」「国家主義者」を自認している。
しかし、どうもこういう言葉って人によって意味づけが違っているみたいなのであんまり言いたくない。
ちゃんと整理しなきゃなあと思っていたところ良いタイミングでこの本が出た。良かった良かった。。
それに東浩紀の本でも思ったけど、結局現在の思想の最大テーマなんだよね。特に日本では。
これからの時代、ウヨサヨが騒ごうが騒ぐまいが日本は民族主義に戻ってゆく。
そのときに悪い意味で捻くれないようにクリアしておくことは必要だ。
 

第1章 概念と用語法—一つの整理の試み
 
1 エスニシティ・民族・国民
2 さまざまな「ネイション」観—「民族」と「国民」
3 ナショナリズム
4 「民族問題」の捉え方
 
第2章 「国民国家」の登場
 
1 ヨーロッパ—原型の誕生
2 帝国の再編と諸民族
3 新大陸—新しいネイションの形
4 東アジア—西洋の衝撃の中で
 
第3章 民族自決論とその帰結—世界戦争の衝撃の中で
 
1 ナショナリズムの世界的広がり
2 戦間期の中東欧
3 実験国家ソ連
4 植民地の独立—第二次世界大戦後(1)
5 「自立型」社会主義の模索—第二次世界大戦後(2)
 
第4章 冷戦後の世界
 
1 新たな問題状況—グローバル化・ボーダレス化の中で
2 再度の民族自決
3 歴史問題の再燃
 
第5章 難問としてのナショナリズム
 
1 評価の微妙さ
2 シヴィックナショナリズム
3 ナショナリズムを飼いならせるか
 

   
ところで、塩川さんもいうようにナショナリズムは両義的で、政治的イシューになりやすいため、定式化が難しい。
現代サヨクは列強のナショナリズムを否定したいのだが、一方で民族解放運動を肯定したい。
そこでいろいろ苦肉の議論を持ち出してくるのだが、結局ダブルスタンダードに陥る。
姜尚中森巣博は「弱者のナショナリズムだけは正しい」と言っていたが、誰が弱者を決めるのか。
無垢な弱者と邪悪な強者なんて図式、いまどき仮面ライダーでも設定していないよ(^_^)
近代日本は西欧powersに対して弱者なのだから同じ論理が成り立つことは想像もできないらしい。
だいたい朝鮮自体が周辺国に侵略しているじゃん。済州島は独立すべきだとか、沿海州は朝鮮南部とは別民族とかまったく言わないくせにね。
でもそういう意味で、日本にいる朝鮮人がどう考えているかは、皮肉ではなく、ナショナリズムを考えるときの格好の例になると思う。そこで朝鮮新報の記事をうpしてみた。
 
康成銀教授はクレバーな方のようだ。
この連載は(相変わらずの脳内変換は置いておいて(笑))非常にスッキリまとまっている。
で、ナショナリズム観も超簡単。
まず、ナショナリズムは良い面も悪い面もある。問題はそれが置かれた歴史性・政治性だ。
日本のような侵略国家のナショナリズムは悪い。帝国主義の侵略に晒されたり、居住国で差別を受ける朝鮮人ナショナリズムは正しい。
ようするに不正義のナショナリズムは悪く、正義のナショナリズムは正しい。
そして何が正しく何が正しくないかは、自分には明白であると。ψ(`∇´)ψ
   

朝鮮史から民族を考える 理論的問題
 

 
ナショナリズムの積極的役割
 
連載にあたって
 
 現在、「民族」をめぐって多種多様な言説が飛び交っており、在日同胞の間でもさまざまな考え方が見られる。民族的な存在である在日朝鮮人にとって、「民族」に対する理解はそのまま自己認識につながる最重要の問題だと思う。この機会に、在日朝鮮人の立場から「民族」の問題を考えてみたい。このような課題は歴史学、哲学、国際政治学など、広い学問分野を見渡す力を必要としているが、筆者は専攻としている朝鮮史との関連のなかで「民族」を考えてみようと思っている。忌憚のないご意見、ご批判をお寄せくださることを願っている。
 
ネイション、エスニシティ
  
 一般的に、民族とは言語、血縁、慣習、地域などの共通性(客観的属性)と、それによって生じた相互の同一性の意識(主観的属性)によって結ばれた人々の集団であるといえよう。日本語の「民族」の語は、ネイションの概念と、エスニシティの概念の双方が十分区別されないまま混合的に使用されているため、一定の注意を要する。それは、民族という語彙が近代日本でネイションの和製漢字として翻訳され、ネイション・ステイトは、「民族からなる国家」(一民族一国家)と解釈され、後に中国、朝鮮でもそのように使われたことに関連する。
 
 筆者は、ネイションとは国民に当てはまるものと考え、民族はエトノスもしくはエスニシティに対応するものと見る。ネイション(国民)は、国境線に区切られた一定の領域、主権とともに近代国家=国民国家(ネイション・ステイト)を構成する3要素の一つであり、近代に入り形成された政治的共同体のことをいう。エスニシティは、言語、慣習などを同じくする文化的共同体という意味合いが強く、古くから歴史的に形成されてきたエスニック・グループが近代国民国家の一構成集団となる。
 
少数民族先住民族
 
 少数民族(マイノリティ)、先住民族(インディジェネラス・ピープル)の定義については国際機関で合意をみている。いわゆる「マイノリティ権利宣言」(1992年国連総会採択)、「先住民族条約」(ILP第169号条約、1989年採択)のことである。これらの国際的合意によれば、少数民族先住民族の共通点として、被支配的な地位にあること、独自の文化的特徴を有する集団であること、その基準では自己規定が重要となること、を挙げている。違いについては、先住民族は、植民地支配などの不当な強制力によって合意もなく一方的に国家によって統合されたため、国際法上の民族として完全な権利、自決権を保持しているとされている。この定義にしたがえば、琉球・沖縄民族、アイヌ民族先住民族であり、「民族自決権」を有しているといえよう。
 
ナショナリズムについて
 
 日本語では国家主義国民主義民族主義と訳されている。アーネスト・ゲルナーによれば、ナショナリズムとは、政治的な単位と民族的な単位が一致しなければならないと主張する「政治的原理」である、となる。これは、ナショナリズムやネイションは近代においてはじめて成立したものであるとする、近代主義的な理解といえよう。これに対してアンソニー・スミスは、ネイションに先行するエスニー(エスニック)共同体がもっている文化的な象徴作用には人間を根源的にとらえる力が含まれおり、このエスニックな文化象徴がもつ威力を解明しなければ、ナショナリズムの呪縛から解放されることはないとする。
 
 これは、ナショナリズムをネイションに先行するエスニックの側から分析しようとする、エスノ・ナショナリズムの立場だといえる。両者を批判する立場から、最近、「市民的ナショナリズム」という概念が強調されている。近代主義的なナショナリズム解釈のうち、近代化という大きな流れの中で確立してきた普遍的原理としての民主主義、自由、平等、そういうものでナショナリズムをつくるならばよいのではないか、ということである。しかし、市民的ナショナリズムも、実はヨーロッパ中心主義、マジョリティ文化がはらむ抑圧メカニズムの現れであって、むしろ差異への無関心を示しているという批判も存在する。
 
 ナショナリズムのはらむ問題性を絶えず意識していかなければならない。しかし、先進国側ではナショナリズムの克服という観点ばかりが強調されているのも問題である。植民地支配がいまだ継続しているときに、ナショナリズムが果たす積極的な役割を、それぞれの歴史的な文脈のもとで考えることが大切であろう。(康成銀、朝鮮大学校教授)
 
[朝鮮新報 2007.10.12]
URL:http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/06/0706j1012-00001.htm
   
「われわれ意識」の下部構造
  
愛国心、祖国批判
  
 いま、日本では、愛国心国家主義にかすめ取られ、愛国でなければ反日であるという極端な言説が幅を利かしている。愛国心パトリオティズムの日本語訳とされているが、その語源はパトリア(出生)を意味することから、本来は郷土愛、祖国愛のことをいう。しかし、日本では愛国心ナショナリズムを歴史的に非常に狭く理解しがちである。そこには次のような理由があるのではないか。
   
 ①単一民族国家」観が郷土愛、祖国愛、国家愛へと延長拡大した愛国心を生んでいる。
 ②国家への不服従、抵抗の経験が少なく、なおかつ、抵抗に対する公的な評価がなされていないため、抵抗の歴史が継承されにくかった。
 ③侵略戦争、植民地支配を犯した日本近現代史をどれだけ学んでいるか。
    
 ブッシュ大統領の自宅農場前などで抗議運動を行い、国際的に注目を集めた「反戦の母」インディ・シーハンさんは、反戦運動が共和、民主両党に政治的な駆け引きに利用され、駐留イラク米軍の撤退にめどが立たない状況を批判して、「ケーシ(息子)の死は無駄だった。(中略)さようなら、米国よ。あなたは私の愛する国ではなかった」と述べた。
   
 ユダヤ系フランス人の歴史学者マルク・ブロックは、ドイツ占領下のフランスで、対ナチスレジスタンスに参加したため、ゲシュタポによって銃殺刑に処せられたが、彼は、「わたしは、これまでそのように生きてきたように、善いフランス人として死ぬだろう」という遺書を残した。
  
 彼女、彼の祖国批判は、自国の現状に対する批判であって、決して祖国愛と矛盾するものではなかった。彼女、彼が愛した祖国は、理念として追求してきた共和主義国家としての祖国であった。その点、朝日新聞(1月25日付)に掲載された世論調査の結果は、特筆すべきものだ。愛国心がある人ほど、侵略や植民地支配に対して反省する必要があると考える傾向が強かった。このことは、「反省するリベラル=非愛国主義者」という構図が、国民の意識から乖離した虚偽の図式であることを暴いてくれる。
 
再びナショナリズムについて
  
 一部の識者のあいだで、「日中韓」におけるナショナリズムの「敵対的な共犯関係」を問題視するところから、ナショナリズムを解体しなければならないとする議論がある。
  
 しかし、この論理は、帝国主義と植民地、侵略と被侵略の決定的な差異を見ない、非歴史的な認識である。  
 解体すべきは、ナショナリズムそのものではなく、ナショナリズム相対化の名のもとに帝国主義植民地主義などに関わる歴史的諸問題が不問に付され、免罪されてしまう論理構造ではないだろうか。
   
 「想像の共同体」で著名なベネディクト・アンダーソンは、単に共同体が想像されたものだといっているわけではない。彼の主張の核心は、「想像されたものでしかない共同体が、なぜ我々をかくも深く情念的に揺さぶるのか」という問いにある。その後、彼は、この時期の自らの議論は、ナショナリズムをグローバルな文脈の中で捉えていなかったと反省し、19世紀末にフィリピン独立を目指したホセ・リサールらが、欧州、アジア、日本の革命家たちとつながりを持っていた事例を挙げながら、植民地独立のナショナリズムが、グローバルな文脈でつながっていたと指摘している。彼は、グローバル化に対応したこのようなナショナリズムを「遠隔地ナショナリズム」という概念で説明している。
   
 ただ、グローバル化時代でもナショナリズムがなくならない理由を、「記憶や慣習」などに求める見解は、ある種の「文化還元主義」ではないかと思う。目を向けるべきは「われわれ意識」の下部構造そのものであろう。ある民族集団が他国(遠隔地)に居住していても、本国の政治的状況は、想像においてではなく、現実に居住国におけるその生を規定する条件なのである。
   
 本国と居住国の二重の規定のもとにおかれている在日朝鮮人から発するナショナリズムの構想は、従来のナショナリズムの枠をも超えるものとなりえるだろうか。
   
(康成銀、朝鮮大学校教授)
[朝鮮新報 2007.10.15]
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/06/0706j1015-00001.htm