SとM

   

SとM (幻冬舎新書)

SとM (幻冬舎新書)

          
SMについての歴史エッセイ。
人間は皆Mという規定から始まって、神の簒奪者であるSという近代人が生まれるまでを西欧キリスト教文明史から解き明かす。
西欧ポルノについての前半部では説得力があるのだが、日本論になると途端にグダグダになる。
普遍的SM論と特殊風土的SM文化論が混線。
語りおろしだから仕方ない?
   
西欧の鞭は超越者の懲罰を象徴すし、日本の縄は着物から、というのは対比にすらなっていない。
ここは漏れなら、西欧=超越神=支配=罰。日本=共同体=束縛=恥 と対比して、縄は世間(という「神」)を意味すると図式化するところ。
だいたいSMは文明の尺度というなら、どんな文明にも適用可能なSM祖型を提示しろ。
さらにSM=信頼関係という定義から一方的な暴力や幼稚な自己愛はSMじゃないと言い切るが、いかがなものか。
世間一般にSM的と見られているもののうち、一部を本当のSM=正しいSMとし、他を偽のSM=間違ったor堕落したSMと語るに至っては、おまえはどんだけ超越者なんだといいたい。どうしておまえが決められるのだ?
アキバオタクの嗜虐性欲は「正しいSM」ではないと言って、じゃあなんなのか?
鹿島氏はSM実践家の「信頼=愛あるSM」だけを良きものとする道徳性に縛られている。
 
定義の中に道徳性を持ち込んだからおかしくなるのであって、漏れはもっと機能的に理解している。
ようするに丸山圭三郎の「エロスタナトス弁証法」のことだ。
文明というのは自然にむき出しのエロスとタナトスを馴致し人工物に組み込んで誤魔化すシステムだ。
だけど、その不自然は本質的に静的で人間にとって窮屈なもの。
したがって定期的に崩して恣意性を確認し、自然=野蛮を補給し賦活させる必要がある。
それが祭でありSMなんだろう。
そのときに文化である自我が覗き見る自然という深淵が神なのだ。
日本では文明システム=世間だから、これの脱構築は、「別の世間」たるSによるリフレーミングであり、その2つの世間のずれに恥というエロスが噴出する。だから涜神ではなく涜世間であるインモラルが大事なのだ。