日本有事

  

間接侵略に対する最後の砦・天皇 
 戦前、コミンテルンの日本担当グループは、どうしたら強大な日本国を無力化し、共産化し、ソ連の衛星国にすることができるのか、その答えを探るため日本史を熱心に研究した。
 まもなく彼らが到達した結論が、「何よりもまず天皇制を破壊しなければならない」───だった。
 日本の帝室の聖性や連続性のイメージを1枚1枚ひきはがし、ありがたみを薄め、なくなっても構わないものだと庶民に思うようになること……。
 この戦術目標が、戦後のソ連と日本国内の反日グループに戦中そのまま引き継がれ、1991年のソ連の崩壊後は、チャミンテルンと国内反日グループのコラボ運動の重要目標になっている。
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 さて明治維新戊辰戦争)の記録を見ると、イギリスやフランスやロシアで起きた過去の革命騒ぎとは異なり、死者数が異常に少ないことが分かるだろう。名前が幕府や藩庁に登録されていた足軽クラス以上の武士の死者が、全部で3000人も死んではいないのだ。ペリーがやってきた嘉永以来の、反幕府活動に関連する被暗殺者や闘死者や刑死/獄死者、足軽より軽輩の武家奉公人クラス(中間・小者など)の無名の陣没者、巻き添えの庶民の犠牲者を含めても、それより2000人は増えまいと思われる。
(略)
 優秀なコミンテルンの政治分析者はすぐに察することができた。日本の歴史的秩序の核心は、一見すると無権力な朝廷の存在だと。帝室が過去から未来まで連続するという安定感のために、日本の内戦は、完全な秩序崩壊には決して至らず、外国の傀儡勢力が暴力で政権を奪取することは難しいのだ。
 しからば外国はこの天皇制をどうやって破壊できるか?まず、歴史をさかのぼって、その根源の血統に、庶民の疑いの目を向けさせることだ。
 この作戦の1つとして、「大和朝廷=もと朝鮮人」説が、さかんに宣伝されるようになった。義務教育に神話を載せるなという反日団体の要求も、この運動方針に沿う。
 もう1つの破壊方法は、帝室を不必要なまでに政治に関与させることである。天皇への外交コメント強要、天皇皇后への外遊強要、皇族からの政治的発言の引き出しなどが、その常套手段である。
 また、敗戦直後の「退位論」も「天皇の首は簡単にすげかわる」(よって大したものではない)という印象を、戦後の国民や諸外国に与えかねなかった点で軽忽であり、実現していれば、おそらく、日本の暴力革命(それには天皇一家の処刑がどうしても必要)を模索するコミンテルンを最も利していただろう。退位の奨めを公然と口に出した宮中に近い人物、および国会議員の背景は謎である。
 高度成長期以降の新戦術としては、「開かれた帝室」運動や、「女系天皇容認」運動がある。
大和朝廷以前から天皇制があった
天皇制」という言葉は戦前のコミンテルンが普及させた。「制度」だから人工物だ。それが悪い制度であったらどうするのがよいか?いまの我々の革命評議会の決議で廃止できるじゃないか──という軽いイメージを創り出して、インテリの価値観を誘導し、暴力革命運動の賛同者にし向けようと思ったのだった。
 だが、反日左翼の願いとは裏腹に、この言葉は、帝室の機能の歴史的な重厚さを全識字階級に想像させる、逆の働きをしたと思う。
 すなわち、戦前の歴史学が論じていた大和朝廷が成立する何世紀も以前から、制度としての「天皇」はあった。いかにもそれは制度だが、特定の時代の誰かが会議でふと決めたような人為的な軽いものなどではなかったのだ。
 制度としての天皇の起源が、テキスト史料では辿りきれないぐらいに古いことを、『日本書紀』『古事記』とほぼ無関係に推断し示唆したのは、日本人の研究者ではなく、戦時中のアメリカの人類学者であった。
 ルース・ベネディクト(1887〜1948)は、米軍による「日本占領」がほぼ射程内に入った1944年6月に、米国政府から日本研究を委嘱された。
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天皇制のルーツは、南洋の『神聖首長』にあり」──と。
 神聖首長は、政治的に無力である。初収穫の果物を神に捧げ、島民全部の幸福を祈る。それだけが仕事だ。しかして、彼は不可侵である。政治的に有力な誰も彼も、神聖首長の身体を傷つけたり、暴行を加えることなどは許されない。
 無私・無権力の聖なる存在が、島の文化の中枢に共通に戴かれていることにより、島内の秩序は、いかなる権力者同士の争いごとが起ころうとも、完全に破壊されることから免れるのである。
 このような「原初天皇制」の文化慣行は、石器時代から日本中、特に西日本には、あったのだ。なぜなら、石器時代の部族の多くが、さかのぼれば、南洋から海を渡ってきて住み着いた集団だった。アイヌ人の衣服と住居の基本デザインも、それが寒冷地で独自に完成したものとは見えず、むしろ非合理的なまでに南洋式である。
 石器時代から縄文時代となり弥生時代となって、その間に、複数の大陸系の新顔部族が、日本列島に流入し、足場を得た。その中から、広域の権力を握る者もあらわれる。
 しかし、石器時代から諸部族が伝存させてきた「天皇制」は、消滅しなかった。それどころか、日本列島で権力を得た新顔部族の方が、先住民に権威を認めてもらうためには、古来からの「天皇制」に自らをアジャストさせねばならなかったのだ。
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 おそらく「日本」という国名が誰かによって定義されるよりずっと前から、日本国は存在していた。そこでは、シナ大陸や朝鮮半島とは違う(おそらく南洋系の)言語が話されてい、その言葉は後の移民たちによって亡ぼされなかったのだ。
 大陸人は、日本を政治的・軍事的に征服できるさまざまな知識を持っていたかもしれない。しかし、文化的に征服することはできなかった。天皇制は、歴史年表上の大和朝廷より、さらに何千年もさかのぼるものなのだ。起源は、大化の改新後に採録した「神代」などよりも遥かに古いのである。たぶんは南方系の複数の部族ごとにそれぞれの「神聖首長」が戴かれていた時期があっただろう。
[p174-181]