台東区はなぜ荒川区と合併しないのか?

 

 
荒川区は小さい。
台東区の北側という感じだ。
だったら、合体させて一つの区にすりゃいいのに、と思う。
しかし、そこには歴史的因縁があるのだ。
台東区は穢多頭弾左衛門の支配地で、荒川区は非人頭車善七の支配地なのだ。
形式的には穢多が非人のうえだが、実態は対立していた。
だもんだから、いまだに両者は分かれているのだった。
 

http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/index.html
弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、
鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。
その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。
やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、
鎌倉以来の家の由緒を述べた。
そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。

http://blog.goo.ne.jp/bittercup02/e/b07e55783079183c3d2b92e36f4e3d08
男はつらいよ』の公開は昭和44(1969)年。
「フーテンの寅さん」と呼ばれた車寅次郎が16歳で家出して旅暮らしの香具師となり、20年ぶりに故郷の葛飾柴又に戻ってきた、
という設定になっている。香具師の本拠地は浅草。江戸の非人頭の名前が「車善七」だった 
江戸時代の制度化された身分では「士・農・工商」の下に「エタ・非人」という賤民身分が存在した。
江戸・東京こそが差別の原点だ。
関東八州における被差別民の支配者「エタ頭」が弾左衛門で、非人も支配下に置いた。
4人いた非人頭のなかでもっとも大きな勢力を持っていたのが車善七である。
浅草の非人たちをすべて統括するのが非人頭の車善七の仕事だった。

http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-date-20100418.html
男はつらいよ』の寅さんはテキヤです。
商品を抱えて行かないと行商にならないのに、寅さんは旅する時は何も持っていない。
各府県に親分がいて、そこで商品を仮り、売った分だけが取り分となるシステムになっている。
生れ故郷は柴又となっているが、本当は浅草だ。
テキヤは浅草に住む非人頭の車善七の手下だから、車寅次郎を名乗らせている。
こうしたことを知って見るとまた違った味わいがある。

http://blog.livedoor.jp/daddy101s/archives/50966835.html
同じ浅草にエタ頭と非人頭がいました。この二人は皮革産業の利権をめぐり、争いを繰り返してました。
しかし、最終的には非人衆はエタ頭の支配下にするという寺社奉行の決断が下されます。
けれどもエタ頭の支配下から抜け出る非人衆もでてきます。それが歌舞伎や能の役者たちです。

http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon02.html
 ところが、中世末期から近世初期にかけて、一般社会の側は長吏・かわたを指して「穢多」と呼ぶようになります。そしてこれが徐々に浸透していき、江戸幕府も正式な身分呼称として「穢多」を用いるようになるのです。
 長吏・かわた身分の人たちは、このような呼び名には納得できませんでした。ですから彼らは、自分たちを「穢多」と呼んで差別することに対して何度も抗議しています。東日本全域の被差別民の頭である弾左衛門も、長吏身分に属する身でした。だから歴代弾左衛門は、幕府に対しても誰に対しても、自らのことを誇りを持って「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称し続けたのです。