BC級戦犯裁判 証言を読む 第2部? スマラン慰安婦強制 日本側も非難した虐待
なぜか最近記事に署名の消えたこのシリーズ。話は佳境「シロウマ事件」だ。
告発するヤーン・ルーフオヘルンさん(1923生まれ、モノクロ写真は20歳当時)
BC級戦犯裁判 証言を読む 第2部?
スマラン慰安婦強制
日本側も非難した虐待
1944年2月、日本が軍事占領していた旧オランダ領ジャワ島中部のスマランで、民間人抑留所に収容されていた18歳から20歳代のオランダ人女性三十数人が4カ所の慰安所で強制的に慰安婦にさせられた。
オランダ軍バタビア裁判69号事件で、慰安所を開設した南方軍第16軍幹部候補生隊の隊長や慰安所の経営者らが強制売春、強姦などの罪で起訴され、48年3月に2人に死刑(1人は後に減刑)、他も7年から20年の刑が言い渡された。
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検察側の聞き取り調査で、慰安婦にされた女性は「彼(被告)は約2ヶ月間、ほとんど毎日慰安所に来た。何回も私の顔を力を入れて手の裏で殴り、寝台の上に投げつけた」と暴行された模様を語っている。
慰安所で慰安婦の衛生検査を手伝っていたという現地の看護婦は「高熱が出たある姉妹のところへ呼ばれた。(彼女たちは)午前中に18〜20名の客がとられ、その上に夜間にも『仕事』があった」と女性たちの過酷な状況を供述した。多くの女性が性病に感染した。非人間的な環境に尊厳を傷つけられ、精神に異常を来す女性もいたという。
被告の軍医少佐は「これら婦女が意志に反して『キャンプ』から出され、売春を強制せられたりということを判然と聞きたることなし」と供述。ほとんどの被告は女性たちが「自由意志によって採用された慰安婦だと思っていた」と弁明した。
しかし、同じ日本人である民間人抑留所の所長は「自由意志によろうと強制によろうと、慰安所のごときところに入れられたる婦女に対しては、一般の者は虐待せられたるものとみなされる。本件の責任者たる日本人を余は鉄面皮な、人生をわきまえぬ獣とみなすものである」と厳しく非難している。慰安所は開設から2ヶ月後の44年4月下旬に軍司令部からの命令で閉鎖される。捕虜収容所本部付大尉は閉鎖の経緯について、「東京から視察に来た大佐に対し、抑留中の夫人が慰安所に連行された娘の窮状を訴えたことで調査を始めた」と現場の違法行為を軍上層部の判断で中止させたとしている。
しかし、裁判で通訳を務めた元主計中尉は62年の聞き取り調査で「ロサンゼルスの海外放送で連合国側はやかましく本件を取り上げて日本側を非難した。海外放送の件を承知した軍司令部は慰安所の閉鎖を命じた」と話している。
そして、「こんな恥ずかしい事件はほかにはなかった。弁護人もさじを投げていた。人道上の罪を犯した事件といえば蘭裁判でこれくらいのものだろう」と厳しく批判する。
同裁判の萩原竹治郎弁護人は58年3月28日付けの「蘭・バタビア裁判所見・所感」という文書を書き残している。
「行き過ぎた命令には下級者といえども服従の義務はないと考える。今度の大戦では上から下まで国際法にはほとんど無関心、陸軍において特にしかりであった。事実と特に違った線で弁護したる事件の記録はない。また免罪者の記録もない。むしろ実際にはやっているのに無罪になったものはいる」
さて、読者はこの記事を読んでどう思ったであろうか?
やっぱり日本軍は悪いことをしていたんだな。朝鮮人と違ってオランダ人が訴えているし、1人死刑になっているんだな。しかたないやな・・・
しかし、よくよく読んでみれば、なんだか腑に落ちない記事なのである。
1942年1月11日海軍がスラウェシ島のマナドに、2月14日陸軍がスマトラ島のパレンバンに落下傘降下した。
1942年3月1日、日本軍はジャワ海海戦を潜り抜け、西部ジャワのバンテン湾、中部ジャワのエレタン、東部ジャワのクラガン岬の3方面からジャワ島に上陸した。日本軍の進撃を止めるものはなく、3日ボゴール、6日バタビア、7日スラバヤ、レンバン、チラチャップを占領した。
8日に包囲されたバンドゥンの蘭軍はカリジャティで停戦を申し出、9日にボールテン最高司令官から無条件降伏の命令がラジオで全蘭軍(蘭印軍)に伝えられた。つまり実質1週間の戦闘で1943年はじめには蘭軍は崩壊したのである。
ジャワ島には蘭軍に加えて豪州、英国、米国合計約10万人がいた。バンドゥンには5万人が集結していた。これに対してジャワ島攻略の日本軍は4万人である。
何故蘭軍はこのように脆かったのか。オランダは日本軍の兵力を20万人と誤認していたといわれる。ボールテン軍司令官の上位になる英国の連合軍総司令官は既にインドへ逃げていた。
日本軍は進攻に際し、後に国歌となったインドネシア・ラヤを放送し、オランダに政治犯として捕えられていた民族指導者スカルノ、ハッタ、シャフリルを釈放した。
というわけで、インドネシアでは連合軍の反抗が始まる1944年まで2年余り仮初めの平和がつづくことになった。
やることのない駐留日本軍兵士10万人が必要としたのは、風俗であった。
敗戦までにスマランには4カ所の公認風俗街が設置された。以下がその一覧である。
さて、慰安所をつくったはいいが、問題は慰安婦である。さすがにインドネシアは遠い。
そこで現地軍は現地スマラン州長官の協力を得て慰安婦を募集した。
あたりまえだが、当時はインドネシアでも公娼自体は犯罪ではない。
料金は将校用高級娼婦は4ギルダー/晩、一般用は1.5ギルダー/1.5時間、女性の取り分は約1/3だったらしい。
結果、蘭印全体で約3000人の慰安婦が働いていたが、うち欧米婦女子が1割程度いたらしい。
戦後のオランダ政府の調査ではこの数百名のうち少なくとも65名が売春を強制されたと判断している。(白人娼婦の20%、じゃあ残りは?)
問題のスマラン慰安所では慢性的に慰安婦が不足しており、1944年2月!にもなって現地業者と結託した幹部候補生隊の一部が管轄の蘭人収容所の女子からの徴用を思いつき、結果35名が応募した。応募の背景には物質的報酬のほか物理的強要があったとされるが、35名のうち少なくとも25名は本人の意志に反して売春を強要されたとされる。
ところがこのことを知った日本軍政当局が問題としたのは強制の有無ではなかった。人種偏見が抗戦欲のひとつでもある欧米連合国にとって、白人少女が日本軍人の慰み者にされることは恐るべきスキャンダルであり、格好の督戦材料になる。16軍は人権ではなく欧米への悪宣伝を虞れて廃止を指令したのだろう。もともと自由意志に基づかない慰安婦強制は日本軍にとって最初から取り締まりの対象であったのだが。
さて敗戦後バタビアの裁判で35名のうち25名の売春強要がみとめられ、責任者に2名死刑、関係者9名に禁固懲役、が課せられた。
最大責任者はすでに日本に帰国していたが、本判決を知り自決。のこる1名はのちに減刑で死刑は免れた。
ここに法的措置は完了している。
ただし、一部ウヨクが主張するように日本軍が自主的に関係者の処分を行った事実はない。
これは前線での慰安婦不足への対処から多少の不正を大目に見る軍律弛緩が慢性化していたことを伺わせる。
この点で、日本軍は潔白ではない。
結局この事例が決定打となって欧米における”日本軍のセックススレイブ疑惑”が確定された。
このような事例があるのであれば、中国・朝鮮ではなおさら自由意志に反する売春強要があったと推察されるだろう。
したがってまったくの潔白をいいつのる反論は無効である。
そこで結論だ。
この日経記事は慰安所を設置し管理売春を行ったこと自体を批判するトーンになっているのが、それはおかしい。
実際バタビア裁判でも慰安所の存在や自由意志の娼婦の存在は問題とされていない。
だからスマラン州長官が被告にならないのである。
問題は直接間接に売春を強要された被害者がいたかどうかなのである。
それがこの日経記事ではまったく読み取れないため感傷的駄文に堕しているのだ。
追記)
この事件、昔はふつうにシロウマ事件と呼ばれていたけど、これ白人の売春婦の隠語だもんで、あまりに露骨なのでスマラン事件というようになったみたいね。
追記)
12世紀前半、東ジャワのクディリ王国に、王国の最盛期を導いたジョヨボヨ (Jayabaya ジャヤバヤ) (位1135以前−1157以後)という王がいた。
ジョヨボヨ王は、宮廷詩人ウンプ・セダーとウンプ・パヌルーに命じて、古代インドの民族叙事詩『マハーバーラタ』をジャワ風に翻案させた。
これは『バラタユダ』 (ジャワ人の発音は「バロトユド」) として知られている。
ところが、『バラタユダ』はただの文学ではなかった。
これは国家統一戦争で大量の血を流させたジョヨボヨ王の懺悔の書であり、そこには摩訶不思議な種々の予言が満ちていると言われるのである。(略)
言い伝えでは、オリジナルはカウィ語(古代ジャワ語)でロンタル(椰子の葉を乾燥させて綴ったもの)に書かれ、今でもソロの王宮に保存されているという。
予言は人間の歴史を6つの時代に分ける。ジョヨボヨ王から見て未来に当たる時代は次のように区分される。
第3の時代……国内に混乱が生じる。
第4の時代……外部から「白い水牛の人」による支配。(遠方から殺傷できる魔法の杖をもつ)
第5の時代……北方から「黄色い猿の人」が天から白衣を纏い降下、異民族を駆逐する。
代わって支配するが、それはトウモロコシ一回限りの短期間にすぎない。
第6の時代……男は女、女は男のようになり、世は麻の如く乱れる。
しかしやがて白馬に跨った救世主ラトゥ・アディルが登場し、永遠の平和と幸福が約束される。